ああ、そう。よかったね。
小さい頃、外であった出来事を母に話すと、決まって言われたのが、
「ああ、そう。よかったね」
でした。
いつも突き放すように言われていたのですが、それでも、私は母に毎日の出来事を一方的に話し続けました。
父は子どもというか家庭に興味が一切なく、母以外に、家庭内に話し相手がいなかったからです。また、長子はちょっと変わっていたので、人の話を聞くタイプではありませんでした。
何を話しかけても、母の返事は決まって「ああ、そう。よかったね」。
苛立ちを隠そうともせず、こちらをちらりとも見ないで吐き捨てていた母の姿が、今でもまぶたに焼き付いています。
母はちょっと変わった長子を付きっきりで一日中世話をしていましたから、恐らく私の話には興味すら持てなかったと思います。
それでも、「ああ、そう。よかったね」。この言葉を聞くためだけに、毎日母に話し続けました。
至極苛立たしげかつ憎々しげにではありましたが、言葉をもらえるだけマシでした。
母の機嫌が悪い時には、その言葉さえもらえず、そっぽを向いたまま、黙って無視されました。
今となってみれば、長子の世話と家事で疲れ切っているところに、ベラベラと話しかけられて、きっと母は心底鬱陶しいと思ったことと思います。
それでも、一応は「ああ、そう。よかったね」と声を掛けてもらっていたことに、今では感謝しています。
とはいえ、育った時にかけられた言葉というのは、とても大きな影響力を持ちます。
幼稚園や小学校に上がった時、クラスメイトとのいざこざでイライラしたとき、私は「ああ、そう。よかったね」と無意識に相手に吐き捨てていました。
母と全く同じ口調で、突き放すように、苛立たしげに、憎々しげに。
長じて気付きましたが、私がかけられて育った言葉は、必ずしも人を和ませる言葉ではありませんでした。というよりも、人を攻撃し、傷付ける言葉も多かったように思います。
それに気付いてからは、「ああ、そう。よかったね」という言葉を使わなくなりました。
負は連鎖します。
私はそれに運良く気付けたので、私でその負を終わらせなければならないと感じたからです。
母が私に放っていた、あの苛立たしげで憎々しげな言葉と口調は、間違いなく私の中に息づいている言葉であり口調です。
しかしそれは、私限りで終わらせなければならない負の言葉であり口調でもあるのです。
以降、「自分が言われたかったこと」「掛けられたかったこと」「心地良いと感じる口調」を選んで話すよう、心がけています。
まだまだ完全には実行できていませんし、どうしても負の言葉や口調が出てしまうことも多々あります。
しかし、負の連鎖を断ち切るために、これからも努力していかなければと思っています。