Letters
音楽には全く詳しくないのですが、聞くのはジャンル・言語を問わず大好きです。
邦楽では、宇多田ヒカルさんを良く聞いていました。
現在は活動休止中ではありますが、今も聞き返しては名曲揃いだなぁと感心しています。
歌の上手さって、リズムや音程の正確さもさることながら発音の良さもあるんだな、と思わせてくれたのが彼女でした。
よく話題になるのが彼女の英語の発音ですが、私は日本語の発音の良さこそ宇多田ヒカルさんの持ち味なんじゃないかと勝手に思っています。
というのは、宇多田さんって濁音にきちんと鼻音を使っていらっしゃるんですね。
これは、他の邦楽アーティストに比べごく稀なことで、彼女の歌声が卓越している理由のひとつなのではないかと思っています。
だから、歌声を聞いていてとても心地良いのではないかと思っています。
最近また宇多田さんの曲を聞き返していて、ふと気づいたことがあります。
それは、名曲『Letters』の「君」「あなた」の解釈です。
ずっと、「君」「あなた」は男性なんだろうと思って聞いてきました。
しかし、「君」「あなた」が「母親」でも解釈的には通るな、と。
「年上の人」は放浪する「母親」=妻を束縛することなく見守っている「父親」かな、と。
身内目線で家族を見ないのが何となく彼女らしい気がして。
それは、宇多田さんのお母さまがご不幸に見舞われた時の公式HPのコメントの印象が強く残っているからかもしれません。
また、私も幼少期から宇多田さんとは性質は異なるものの、「母親」に置き去りにされた経験があるので、勝手にそう解釈してしまうだけかもしれませんが。
「母親」の愛情を求め続ける「私」、居場所を探し続けてさまよう「母親」への複雑な愛情を訴える「私」の歌だと考えると、個人的には一番しっくりきます。
特に、日本語歌詞最後の
今度急にいなくなる時は 何もいらないよ
には、何度も「母親」に期待してはそれが叶わなかった自分の姿を勝手に重ね合わせてしまいます。
最後の英語詞に、「leave」という単語が繰り返し出てくることからも、ますますそう解釈してしまっています。
このように、何度聞いても、年を重ねるごとに色々な解釈ができる歌詞を書く才能も、宇多田さんの魅力のひとつだと思っています。
皆さんはどのように解釈なさるでしょうか。
天井とお粥
物心つく前から、両親の関心が自分に全くない、ということは痛いほど理解していました。
例えば、病気の際。
実は、ほとんど病院に連れて行ってもらったことがありません。
私は両親にとって、いてもいなくてもどうでも良い存在だったからです。
長子と私の両方に高熱が出ても、私は当時住んでいた家の二階にあった畳の間に布団を敷かれて、ひとりで寝かされるだけでした。
病院に連れていかれるのは、いつも長子のみです。
ですから、ごくまれに病院に連れて行ってもらえると、とても嬉しくてはしゃいでしまい、医者に「こんな元気な子をどうして病院に連れてきたのだ」と言われてしまうほどでした。
大人になった今でも、病院に行くのは特別な感じがして、病気なのに嬉しさがあります。
小さい頃の経験で今でも覚えているのが、熱の出た身体でゴロゴロと布団の外に転がり出ると、ひんやりとした畳の感触が気持ちよかったことです。
またゴロゴロと布団の中に戻ってはまた転がり出るのを繰り返すと、母が長子を連れて病院から戻るまで寝るか、ひたすら天井を見上げていました。
母が長子を連れて戻ってきても、私はそのまま畳の間に寝かされ、自力で一階に降りていけるようになるまで、そのまま放置されていました。
何度も見つめていた天井の模様は、今でも目に焼き付いています。
当時も今も、病院になぜ連れて行ってもらえなかったのか、疑問には思っていません。
わが家には厳然とした「序列」があり、第二子である私は両親から関心すら持たれていませんでしたし、「厄介者」の私に万一何かあったとしても、ご近所の目を意識して儀礼的に流すのを除けば、誰も涙すら流さず、誰一人悲しみもしなかったんじゃないかと思います。
それに、幼子を二人も連れて病院に行かなければならない母の身としても、庇護するべき対象である長子のみを連れていくことに、何の疑問もなかったと思います。
同じように熱を出しても、私はひとりで寝かされ、長子だけ病院に連れて行ってもらい、両親は涙を流さんばかりに心配し、あれやこれやと世話を焼く。
何度か触れてきましたが、長子は、言葉でコミュニケーションを取るのが今も昔も不得手です。
それは、小さい頃から親が先回りしてあれやこれやと世話を焼いてきたので、今更自分の言葉で自分のことを他人に伝えきれないからです。
今でも、長子は自分以外の誰かが自分のことを自分以上に理解してくれて、自分に代わって他の誰かに説明してくれるのだ、と本気で思っている節があります。
これはこれで、大変不幸なことだと思っています。
ところで、病気の際、畳の間にひとり寝かされることを当然のこととして大人になり、ひとつ驚いたことがあります。
それは、「病気の際には、どうやらお粥というものを食べるらしい」ということです。
病気になっても、私は“お粥”というものを作ってもらったことが無いので、長らく存在すら知りませんでした。
大人になってから、「風邪を引いてしまった」と言うと、複数の友人が“お粥”というものを作って持ってきてくれて、ようやくその存在と役目を知りました。
しかし、今でも“お粥”を食べ慣れないので、病気の時に食べたいとは思いません。
病気の際は、今でも、自力で起き上がれるようになるまで、飲まず食わずで布団の中に転がっているものだ、と思っています。
どうでもいい子 2
「どうでもいい」とは、私が言われ続けて育った言葉です。
- アンタのことは“どうでもいい”
- アンタが何をしようと“どうでもいい”
- “どうでもいいでしょ”
等々、列挙に暇がないほど言われ続けてきました。
母親に話しかけても、返ってくるのは“どうでもいい”ばかりで、でもそれでも言葉が返ってくるだけマシでした。
大抵は何も返って来ず、存在すら無視されていたからです。
両親にとって自分は価値のない人間なのだな、というのは物心つく前からわかっていました。
両親にとって価値のある子どもは、家庭内で長子ただ一人だったからです。
どうでもよくない、構いたい価値のある子は、長子であって私ではない。
それは、幼い私にもはっきりとわかるほど、両親の態度はあからさまでした。
そういえば、子どもというのは親から無条件に愛情を注いでもらえるものらしい、というのを知ったのは、大人になってからでした。
無償で注いでもらえる愛情って一体何なんだろう。
愛情って、無条件に注いでもらえるものなのだろうか。
それは、いい歳になった今もさっぱりわかりません。
愛情、というものも、愛されるという感覚も、いまだに一切わかりません。
わからないなりに、他の人に愛情を注いでみているつもりですが、それが果たして本当に愛情であるのか、正直わかっていません。
でも、ひとつだけわかることがあります。
それは、「してもらいたかったことを相手にする」ということです。
子どもを見たら、極力良いところを見つけて言葉で褒め、そして頭をなでる、ハグをするなど行動に表すようにしています。
言葉も行動も、無償の行為です。
それで愛情が示せるのなら、いくらでもしたいと思っています。
異性や友人に対しても同様です。
小さかった私がしてもらいたかったことを、相手にする。
それで、自分がもらえなかった愛情を補完できているつもりになっているのかもしれません。
愛情ってどのように注いでもらえればよかったのか、もう大人になってしまった私には取り返しのつかない難題です。
しかし、今同じ問題を抱えている人がいたら、差し上げられるものなら差し上げたい、そう願っています。
「どうでもいい子」
- どうでもいい子
- アンタのことは、どうでもいい
上記は、母から本当に良く言われていたことです。
何かを母に言っても、「アンタのことは、どうでもいい」。
そう言ってすぐにそっぽを向かれていました。そう言った母の疲れ切って冷たい横顔は、今でも目に焼き付いています。
それに、頻繁に言われてはいましたが、「どうでもいい子」の意味を、そういえば私はずっと理解できていませんでした。
というよりは、理解したくなかったのだと思います。
“アンタ”という呼称からして、母にとって私は「子ども」や「娘」ではなかったのだろうと思います。
愛情を注ぐ対象ではない、“厄介者”。
これが、母にとっての偽らざる私の存在だったのではないでしょうか。
父にとっても同様です。
例えば小さい頃、1Lの牛乳パックが重くて、手元が狂ってうっかりグラスの外に牛乳をこぼしてしまった時。
私には、間髪入れず
「吸え!!」
と怒号が飛んできました。
しかし同じことを長子がしても、
「こぼしてしまったの?」
声だって猫なで声です。
恐らく生まれた時から、長子と私の立場には、雲泥の差がありました。
父母にとって、私は“厄介者”以外の何物でもありませんでした。
今でもそれは変わりませんし、仕方のないこととそれを受け入れています。
私のこの心境は、もしかすると随分と奇妙に思えるかもしれませんし、場合によっては人の道を踏み外す理由になったかもしれません。
しかし、私が人の道を踏み外さずに済んだのは、ひとえにご近所の小母さま方の存在が大きかったと思っています。
小母さま方には、いつも「可哀想だ」と同情をいただいており、長子よりも随分優しくしていただきましたし、可愛がっていただきました。
私を見かけるなり、「家に寄っておいで」「ご飯食べた?」と常に声を掛けていただいていました。
誰も言ってくれなかった、「可愛いね」「お利口さんだね」という言葉も、小母さま方には掛けていただけました。
今はもうぼんやりとしか顔を思い出せなくなった小母さま方には、感謝しても、しつくせません。
しかし幼かった私は、「可哀想」と小母さま方に言われる意味を分かっていませんでした。
自分を「可哀想な子ども」だと自覚していなかったからです。
意図的にかそうでないかはわかりませんが、私が自分自身を惨めに思わなくて済んでいるのは、ある意味鈍感だったからでしょうか。
だからこそ、長じて記憶を辿っていて、私の子ども時代が普通とは少々かけ離れていることに気付いた時には、かなりの戸惑いを覚えました。
とはいえ、空腹に泣いたこともないし、貧しかった記憶もない。
だからこそ、私は幸せな子どもだったのだ、と思っています。
「どうでもいい子」ではありましたが、私は幸せな子どもだった。
そう信じています。
「なんで?」
今日はちょっと趣向を変えて、恐らく母が育て辛かったであろう、ちょっと変わった長子について綴ってみたいと思います。
長子とは、いまだに上手く会話のキャッチボールができません。
というのは、何を聞いても最初に返ってくる答えが「なんで?」だからです。
例えば、
「土曜日、出勤?」→「なんで?」
「コンビニ寄る?」→「なんで?」
「今から送る文書をプリントアウトしてくれる?」→「なんで?」
という具合に、何を聞いても頼んでも、「なんで?」が先に来るのです。
質問の意図が通じないようで、それは子どもの頃から現在も、全く変わりません。
そういえば母が言っていました。
私が生まれる前、まだ長子がひとりっ子だった頃、目にするものすべてを指さして、「なに?」と聞いていた、と。
自分が認識できるまで繰り返し聞き、目に入るものすべての名称や現象を説明しなければならなかった、と。
その質問はひっきりなしに続き、やはり付きっきりで面倒を見なければならなかったようです。
また長子は、初対面の人と会話を交わすことができません。
現在は少しは良くなっているようですが、基本的に極度の人見知りなので、初対面の人とは、直接ではなく、誰かを介してでないと話すことができません。
というよりも、言葉で人とコミュニケーションをとることが、極度に苦手なのです。
よって、病気になっても病院には行けません。医師に、自分の言葉で自分の体調を説明できないからです。
また、言葉を額面通りに取りがちで、婉曲的な表現をされると、その発言の真意が汲み取れません。
それが、現在も続く「なんで?」の原因でもあるようです。
普通、「土曜日、出勤?」と聞かれると、何か用事があるのでは、との予測がつきますが、長子はそれができません。
また、自分で決めた“マイルール”に従って生活をしており、傍から見るとかなり奇妙な生活をしています。
例えば、アレルギーなどは一切ないのに、
- ○○(任意の食べ物)は食べない
と決めていて、それを数十年頑なに守っています。好き嫌いという訳でもなく、「自分で決めたから」食べない、というだけです。
また、
- ○○(任意の国や地域/場所)には行かない
とも決めていますので、行けない場所がたくさんあります。これも、特に理由はなく、「自分で決めたから」行かない、というだけです。
このような数限りない“マイルール”に従って生活をしていますので、私から見ると大変窮屈な生活をしています。
しかし本人が自分で決めたことで、やめるという選択肢は本人にもありません。
誰かに強制されたわけでもなく、宗教や信仰上の制約があるわけでもなく、体質や医師からの制限を受けているわけでもないのに、自分で勝手に決めて、勝手に守っているだけなのです。
また、物事に対して強いこだわりを持っていますので、自分の決めたペースや秩序を乱されると、かなりの不快感を覚えるようです。
他人を許容できないので、人と旅行に行くこともできません。学生時代につきものの「修学旅行」、これも参加できませんでした。
私には楽しい思い出しかありませんが、他人を許容できず、自分の決めた秩序を乱される旅行という行為は、長子にとっては耐えがたい苦痛のようでした。
その他にも、長子に関してはいまだに奇妙なことしかありません。
もしかすると、専門医の診察を受けると、何らかの診断がつくのでは、とも思うこともあります。
しかし、前述のように、長子は言葉でのコミュニケーションがかなり不得手なので、医師にかかることはできないのです。
また、本人も生き辛さを感じてはいるものの、現在も幼少時、母が付きっきりで自分にしてくれていたように、「誰かが何とかしてくれる」と、本気で思っている節があります。
これじゃ、私もお手上げです。
誰のものでもない人生、自分で自分の人生を生きなければ。
いまだに自分の人生を歩めていない長子を、時折不憫に感じます。
しかし、もう人生の後半戦に差し掛かっている長子に、私の思いは伝わりません。
やはり、自分は自分で自分の人生を生きるしかないんです。
厳しいかもしれませんが、当然のことだと考えています。
『鬼畜』
全く知らない映画だったのですが、岩下志麻さんと小川真由美さんが共演している、と言うだけでなぜか惹かれて、松本清張原作の『鬼畜』(1978年公開)を見ました。
印刷屋を営む気の弱い宗吉(緒形拳)が、愛人・菊代(小川真由美)との間に3人の子どもをもうけます。
やがて印刷所の経営が傾き、愛人と子どもを養えなくなった宗吉に嫌気がさした菊代は、宗吉の妻・お梅(岩下志麻)のもとへ子ども3人を連れて行き、雲隠れする。
愛人の子どもと宗吉、お梅の生活が始まるが、お梅は愛人の産んだ子どもには愛情を注げず、子どもを待ち受ける運命は…。
というストーリーなのですが、何と言っても、緒方拳、小川真由美、岩下志麻、そして蟹江敬三という名優たちの演技が圧巻の作品です。
中でも、岩下志麻さん演じるお梅の鬼気迫る演技には、演技と分かっていても嫌悪感を覚えるほどです。
しかし私は、目を吊り上げ、心底憎々しげに子どもを睨み付け、子どもに刺々しい言葉を投げつけ、折檻を繰り返すお梅の姿に、思わず私の母の姿を見つけて、なぜか懐かしくなってしまいました。
母は岩下さんのように美人ではない、どこにでもいる容姿の女性ではありましたが、ドキッと驚くほど、似ていたのです。
まったく同じ表情を、私の母も良くしていた。
表情ばかりでなく、同じような行動を、私もされていました。
本来ならば眉をひそめて見るべきシーンが、私にとっては懐かしい表情と行動のオンパレードで、そこばかり何度か繰り返し見てしまいました。
そして、岩下志麻さんは、やはり名実ともに大女優なのだと再認識した映画でもありました。
役作りで、あれだけの憎しみを表現できるのですから、役者さんの才能というのは凡人とはかけ離れているのですね。
この映画のレビューを見ると、緒形拳さんの名演についての言及に目がいきます。
また、気の弱い宗吉(緒形拳)と気が強く残忍なお梅(岩下志麻)との対比もよく言及されています。
しかし私は、子どもを愛せない女性の狂気を見事に演じきった岩下志麻さんの、一瞬たりとも優しさを見せず、終始一貫して冷徹で残忍な目こそ、最も称賛されるべき演技だったのではないかと思いました。
とはいえ、お梅の気持ちもわからないでもないと思います。自分が産みたくても“産めなかった”子どもを愛人が3人も出産し、しかも、すべては自分の与り知らぬところで行われていた出来事なのです。
加えて、事業が上手く行っていた時ならばまだどうにかなったのかもしれないのに、事業が傾いて、自分たちの生活も苦しい時にいきなり手の掛かる子どもが3人も増える…。
だからといって子どもを折檻していい理由にはなりませんが、冷たく当たってしまう気持ちは、全く理解できないわけではありません。それよりも、自分が産んだ子どもを放置して行方をくらましてしまう菊代の行動の方が理解に苦しみます。
やはり、「母性本能」って神話に過ぎないのではないかな、と思ってしまいます。後天的に、“獲得する”ものなのではないでしょうか。
だから、例え子どもを産んだとしても、「母性」を獲得できないままの女性も存在するのではないかと思うのです。
ところで、『鬼畜』とは一体誰のことなのでしょうか。
諸説ありますが、私個人の見解としては、登場する大人全員のように感じました。
ながら見で、じっくりとは見ていませんので、数回見るうちにまた感じ方も変わっていくとは思うのですが。
皆さんは、一体どのようにお感じになるでしょうか。
ああ、そう。よかったね。
小さい頃、外であった出来事を母に話すと、決まって言われたのが、
「ああ、そう。よかったね」
でした。
いつも突き放すように言われていたのですが、それでも、私は母に毎日の出来事を一方的に話し続けました。
父は子どもというか家庭に興味が一切なく、母以外に、家庭内に話し相手がいなかったからです。また、長子はちょっと変わっていたので、人の話を聞くタイプではありませんでした。
何を話しかけても、母の返事は決まって「ああ、そう。よかったね」。
苛立ちを隠そうともせず、こちらをちらりとも見ないで吐き捨てていた母の姿が、今でもまぶたに焼き付いています。
母はちょっと変わった長子を付きっきりで一日中世話をしていましたから、恐らく私の話には興味すら持てなかったと思います。
それでも、「ああ、そう。よかったね」。この言葉を聞くためだけに、毎日母に話し続けました。
至極苛立たしげかつ憎々しげにではありましたが、言葉をもらえるだけマシでした。
母の機嫌が悪い時には、その言葉さえもらえず、そっぽを向いたまま、黙って無視されました。
今となってみれば、長子の世話と家事で疲れ切っているところに、ベラベラと話しかけられて、きっと母は心底鬱陶しいと思ったことと思います。
それでも、一応は「ああ、そう。よかったね」と声を掛けてもらっていたことに、今では感謝しています。
とはいえ、育った時にかけられた言葉というのは、とても大きな影響力を持ちます。
幼稚園や小学校に上がった時、クラスメイトとのいざこざでイライラしたとき、私は「ああ、そう。よかったね」と無意識に相手に吐き捨てていました。
母と全く同じ口調で、突き放すように、苛立たしげに、憎々しげに。
長じて気付きましたが、私がかけられて育った言葉は、必ずしも人を和ませる言葉ではありませんでした。というよりも、人を攻撃し、傷付ける言葉も多かったように思います。
それに気付いてからは、「ああ、そう。よかったね」という言葉を使わなくなりました。
負は連鎖します。
私はそれに運良く気付けたので、私でその負を終わらせなければならないと感じたからです。
母が私に放っていた、あの苛立たしげで憎々しげな言葉と口調は、間違いなく私の中に息づいている言葉であり口調です。
しかしそれは、私限りで終わらせなければならない負の言葉であり口調でもあるのです。
以降、「自分が言われたかったこと」「掛けられたかったこと」「心地良いと感じる口調」を選んで話すよう、心がけています。
まだまだ完全には実行できていませんし、どうしても負の言葉や口調が出てしまうことも多々あります。
しかし、負の連鎖を断ち切るために、これからも努力していかなければと思っています。