天井とお粥
物心つく前から、両親の関心が自分に全くない、ということは痛いほど理解していました。
例えば、病気の際。
実は、ほとんど病院に連れて行ってもらったことがありません。
私は両親にとって、いてもいなくてもどうでも良い存在だったからです。
長子と私の両方に高熱が出ても、私は当時住んでいた家の二階にあった畳の間に布団を敷かれて、ひとりで寝かされるだけでした。
病院に連れていかれるのは、いつも長子のみです。
ですから、ごくまれに病院に連れて行ってもらえると、とても嬉しくてはしゃいでしまい、医者に「こんな元気な子をどうして病院に連れてきたのだ」と言われてしまうほどでした。
大人になった今でも、病院に行くのは特別な感じがして、病気なのに嬉しさがあります。
小さい頃の経験で今でも覚えているのが、熱の出た身体でゴロゴロと布団の外に転がり出ると、ひんやりとした畳の感触が気持ちよかったことです。
またゴロゴロと布団の中に戻ってはまた転がり出るのを繰り返すと、母が長子を連れて病院から戻るまで寝るか、ひたすら天井を見上げていました。
母が長子を連れて戻ってきても、私はそのまま畳の間に寝かされ、自力で一階に降りていけるようになるまで、そのまま放置されていました。
何度も見つめていた天井の模様は、今でも目に焼き付いています。
当時も今も、病院になぜ連れて行ってもらえなかったのか、疑問には思っていません。
わが家には厳然とした「序列」があり、第二子である私は両親から関心すら持たれていませんでしたし、「厄介者」の私に万一何かあったとしても、ご近所の目を意識して儀礼的に流すのを除けば、誰も涙すら流さず、誰一人悲しみもしなかったんじゃないかと思います。
それに、幼子を二人も連れて病院に行かなければならない母の身としても、庇護するべき対象である長子のみを連れていくことに、何の疑問もなかったと思います。
同じように熱を出しても、私はひとりで寝かされ、長子だけ病院に連れて行ってもらい、両親は涙を流さんばかりに心配し、あれやこれやと世話を焼く。
何度か触れてきましたが、長子は、言葉でコミュニケーションを取るのが今も昔も不得手です。
それは、小さい頃から親が先回りしてあれやこれやと世話を焼いてきたので、今更自分の言葉で自分のことを他人に伝えきれないからです。
今でも、長子は自分以外の誰かが自分のことを自分以上に理解してくれて、自分に代わって他の誰かに説明してくれるのだ、と本気で思っている節があります。
これはこれで、大変不幸なことだと思っています。
ところで、病気の際、畳の間にひとり寝かされることを当然のこととして大人になり、ひとつ驚いたことがあります。
それは、「病気の際には、どうやらお粥というものを食べるらしい」ということです。
病気になっても、私は“お粥”というものを作ってもらったことが無いので、長らく存在すら知りませんでした。
大人になってから、「風邪を引いてしまった」と言うと、複数の友人が“お粥”というものを作って持ってきてくれて、ようやくその存在と役目を知りました。
しかし、今でも“お粥”を食べ慣れないので、病気の時に食べたいとは思いません。
病気の際は、今でも、自力で起き上がれるようになるまで、飲まず食わずで布団の中に転がっているものだ、と思っています。