母がしんどい

親子関係(特に母娘関係)って難しい。無条件に子を愛せる母親ばかりではないし、親からの愛情は無条件に注がれるものでもない。どうして母娘関係は上手く行かないことが多いのか。母の過去の行動から「母娘関係」の分析を試みます。

新しいお母さん

今日は、少し過去の記憶を記しておきたいと思います。

私の一番古い記憶は1歳半から2歳くらいの記憶で、そこから現在に至るまでの記憶があります。というか、幼少期の記憶が一番鮮明なんですよね。

多分、その時期にあまり楽しい記憶がないので、余計に印象深く心に残っているのかもしれません。

特に3歳以降の出来事は、今でもはっきり脳裏に焼き付いています。

両親にとって私は長子ではなく、次子です。私が3歳前後の頃、長子は小学生になるかならないかくらいの年齢です。

長子は、今考えても少し変わった子どもでした。恐らく、母にとっては育てにくい子どもだったのだと思います。

当時、“育メン”なんて言葉はありませんし、結婚後働く女性も少ない時代で、私の母もご多分に漏れず専業主婦でした。

育児や家事など家庭内のことはもちろんのこと、ご近所とのお付き合いまで、すべてが母に係る仕事でした。

出身地ではない土地にやってきて、地元の勝手も習慣もわからず、周囲に知り合いのいない中、長子を出産し育てる。しかも、肝心の夫は何ひとつサポートしてくれない。弱音を吐ける相手もいない。

加えて、長子はどう説明したらよいのかわからないが、どうも育てにくい。しかし、長子だから比較する対象もないし、育児はこのようなものなのかも、と思い込もうとする。

やがて次子を出産すると、長子が完全に幼児返りしてしまい、何ひとつ自分で出来なくなった。生まれて間もない次子の世話をしようとすると、長子が引き付けを起こして白目をむき、泡を吹いて倒れてしまう。でも、誰も助けてくれないんです。自分の夫でさえも。自分の子どもでもあるのに、知らん顔なんです。

ーーーーこんな生活、誰だって嫌です。

こんな状況の中、私の両親が下した結論。それは、「次子はいないものとして扱う」でした。

まだひとりでトイレも食事もできない頃は、何とか親が世話を焼いてくれていたことと思いますが、それができるようになると、放置されました。

うっすらとしていますが、長子を両親でチヤホヤしているのをボーっと眺めている記憶が残っています。私は確かに存在しているのですが、家庭内では存在していない。

そんな期間が、長子の状態が落ち着くまで、数年間は続きました。

私と長子が幼かった頃の母の身体的・精神的ストレスは相当のものがあったと思います。

しかし、親というものは不思議なもので、手の掛かる子どもほど可愛く感じるのだそうです。

だから、長子はどんなに手が掛かろうと、育て難かろうと、常に両親の愛情が注がれる対象であり続けました。

対する私は、誰も何も世話を焼いてくれないので、何でも自分でするしかありませんでした。

自分で出来ないことは、大人にやってもらえるよう、上手くお願いしてやってもらう必要がありました。すると、自然と言葉と交渉術が発達します。よって、私は年の割には口が達者な、所謂“ませた子ども”だったと思います。

しかし、これが母の大いなる不興を買っていました。

  • 子どもの癖に可愛げがない
  • 生意気だ
  • 大人に媚びを売っている

等々、目を吊り上げ、口を尖らせた例の憎々しい表情で、常に責め立てられ続けました。長子と異なり、私は母の憎しみと不満をぶつけられる対象であり続けました。

とはいえ、当時の私としては仕方がなかったのです。

「イライラするから」「顔を見たくないから」と、よくひとりで外に出されていました。文字通り締め出されていたので、何度ドアを叩いても、必死に背伸びをしてドアノブをガチャガチャやっても、母は決して出てきません。

仕方なく近所の公園に行っていましたが、まだ幼稚園にも通っていない2~3歳児がひとり遊びするのにも、限界があります。

また、行動範囲も限られてくるので、結局は近所の小母さん方に相手をしてもらうほかありませんでした。

「またひとりで遊んでいるの?」「家に寄ってらっしゃいよ!」そう声を掛けてもらうと、小母さんたちの邪魔をしないよう極力お利口にして、今考えるとかなりの長時間、お宅にお邪魔していました。

それでも、いつも代わる代わる声を掛けていただいて、お宅にお邪魔させてもらえていたのは、近所の小母さん方も、私のことを憐れんでくれていたからなのでしょう。関心を注いでいただいたことに、今でも深く感謝しています。

この頃、母のイライラは限界に近かったのだと思います。でも、何度も言うように、頼れる人のいない土地で、夫ですら何ひとつしてくれないんです。

「お前が我慢すればいいんだ」「我慢できないお前が悪いんだ」と言い争っていた記憶が、朧げにあります。

育て辛い長子とまだ手の掛かる幼児を抱えて、母の精神状態は限界だったのでしょう。予想ですが、もしかしたらこの時期の両親の関係は崩壊寸前だったのかもしれません。

この時期、父が私に「新しいお母さんが来るぞ」と言っていた記憶があります。つまり父は、離婚して別の女性と再婚してもいいんだぞ、と母を脅していたのです。

当時の私は、それを聞いて本当に嬉しかったのを覚えています。私は家庭内では「不在の存在」で、常に母から憎しみと不満を投げつけられる存在だったからです。

「新しいお母さんが来る」と聞いて、もう家庭内で“いない者”として扱われることもないし、ひとりで一日を過ごさなくても済む。窮屈な思いをしてご近所の小母さま方に相手をしてもらわなくても、「新しいお母さん」が可愛がってくれるんだ!

一気に、私の周りの物事が輝きを持ったように感じました。

やった!ようやく可愛がってもらえる!

そう思い、「新しいお母さんが来るんだよ!」と喜び勇んで近所に言って回っていましたし、実際に母に「いつになったら新しいお母さんが来るの?」と聞いてもいました。

今考えると、何て残酷なことをしたのだ、と思います。

しかし、当時の私は「新しいお母さん」との楽しい生活を、毎日本気で夢見ていました。

それほど、私と母の関係は、既に異質なものとなっていました。