親がしんどい
最近、また過去の記憶に苦しむことが多くなりました。
そこで気付いたのですが、私がしんどかったのは母だけではない。
父も酷く私を苦しめ続けています。
つまりは、親がしんどい。
親という存在は、一般的にはとても温かく優しく、頼れる存在なのだそうです。
しかしながら私にとっては、その様な存在ではありません。
どんなに困っても、助けてもらったことはありません。
現在に至っても常に私を突き放し、罵り、馬鹿にし、やる気を削ぐ存在であり続けています。
「家庭」という場所も、私にとってはリラックスとは程遠いところでした。
どうやったら、温かく優しく、そして頼れる親と家庭に出会えたのだろう。
もういい歳となった現在では、もはや出会いようもありません。
また、
「だったら、自分がそのような理想の親になって、理想の家庭を作ればいいじゃないか」
と思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし私には到底無理です。
きっと自分がされたように、わが子を突き放し、嘲り、罵り、やる気を削ぐ言葉ばかり投げつけてしまうかも知れない。
そう思うからこそ、怖くて家族を持つことなど、考えたことがありません。
どちらにせよ、もう子どもを持つことは諦めた年齢ですが、
負のスパイラルを私で断ち切ることができたのは、不幸中の幸いなのだ、
と思うようにしています。
おやつがわり
これを知ったのは割合最近のことなのですが、摂食障害って母娘関係に問題を抱えている人に罹患率が高いのだそうです。
確かに、摂食障害に悩む方には女性が多い気がします。
私の場合、摂食障害までは行きませんでしたが、ずっと食事を美味しいと思ったことがなく、フラフラになって身体がしんどいから仕方なく食べる、というのが食事の意味でした。
例えば、高校生から大学にかけては食べられないことが多く、常に真っ直ぐに歩けませんでした。
自分では真っ直ぐに廊下を歩いているつもりでしたが、気が付けば壁に身体を擦り付けながら歩いている、という状態でした。
太れませんでしたが、見た目にハッキリと目立って悲壮感が漂うほど痩せてはいませんでした。
でも、細い身体が好きで、もっともっと痩せて身体が無くなってしまいたい、とも思っていました。
やせ細っている身体こそ完璧で素晴らしい、と当時は本気で考えていました。
食事について、私が一番辛かったのは高校時代でした。
学力トップ校に在籍していましたので、毎日勉強へのプレッシャーが容赦なくありました。
毎日試験がありましたし、その試験に合格できないと、懲罰のようなものがありました。
同級生たちとも常に競争しなければなりませんでしたので、毎朝5時には起きて登校していました。
私は、朝早く起きて、誰にも邪魔されずにひとりで自由に使える時間が大好きでした。
他の家族が起きてくる前のつかの間の時間、ひとりで朝食と身支度を済ませて登校するのが理想でしたが、それを母は許してくれませんでした。
母本人にしてみれば、きっと早朝ひとりで娘が登校準備をするのは寂しかろう、との思いやりだったのかもしれませんが、私が起床して身支度を始める音を聞くや、母も起きてきて、毎朝父への不満を聞かされました。
正直、当時の私にしてみれば拷問のような時間でした。
それでなくとも、毎日が勉強へのプレッシャーとストレスでいっぱいいっぱいでした。
その上毎日、母から父への文句を聞かされるのです。
「うん…、うん…」と聞きながらも、なぜ父本人に言わないのか、と思っていました。
今思えば、母は父への不満があっても、離婚して(離婚されて)自分の力で生活しようという気概はなかったのだと思います。
ちょっと変わっているが母が可愛いがってやまない長子は、人の話を聞くタイプではありませんでした。
よって、母が自らの気を晴らすためには、私を不満のはけ口にせざるを得なかったのだと思います。
ただでさえ勉強への強いストレスに曝されていたのに、恐らく、当時の私の身体は耐えられなかったのだと思います。
気付けば、朝食はほとんど食べられなくなり、毎日酷い胃痛に悩まされるようになっていました。
“女子高生”という、最もキラキラして楽しいはずの時代が、私にはほとんどありませんでした。
胃の痛みで四六時中脂汗が出て、時にはうずくまってしまうほどで、お洒落なメイク道具の代わりに、缶に入った粉状の胃散薬を缶ごと持ち歩いては服用していました。
あの有名な胃散薬の一番大きい缶を持ち歩く、ある意味異常な“女子高生”でしたが、その大缶の胃散薬もすぐに飲み終えて、何缶も買い足しました。
すると当時、飴やラムネのようにチュアブルで服用できる胃薬が発売されました。
私はそのテレビCMを見るや薬局に買いに行き、缶よりも携帯性に優れたそのチュアブル胃薬を、それこそおやつがわりに毎日山のように食べていました。
しかし、それでも私の胃痛が治まることはありませんでした。
高校生だった私が朝食をほとんど食べなくなり、通学鞄に山ほど胃薬を持ち歩いていたことには母も気付いていたはずですが、何も言われたことがありません。
きっと、私の健康など心底どうでも良かったのだと思います。
山のように胃薬を持ち歩く娘を前に、母は変わることなく、毎日繰り返し、父への不満を聞かせました。
大学に入ってからも、メイクポーチには必ず胃薬が入っていました。
いい歳になってようやく、胃薬を持ち歩くことはなくなりましたが、今、またストレスで胃薬を飲み始めました。
昔とは逆で、今度は、胃がはち切れそうになるまで食べて、食べて、食べ続けてしまいます。
胃が痛くなると胃薬を飲み、少し痛みが引くとまた食べる、その繰り返しです。
高校生だった頃とは真逆で、醜く膨れ上がる身体を嫌悪しつつも、食べるのを止められません。
今の私は、高校生とは随分とかけ離れた年齢になりましたが、未だに変われていません。
また同じことの繰り返しです。
そんな自分を、許してあげたいのに許せずに苦しんでいます。
『愛を乞うひと』
ドラマ版が放映されたことを知り、敢えて映画版の『愛を乞うひと』を見ました。
主演は原田美枝子さんで、母・陳豊子役と娘・山岡照恵役の二役を全くの別人のように、見事に演じ分けていらっしゃいます。
物語は、豊子と幼少期の照恵の別れのシーンから始まり、以降は大人になった娘・照恵の目線で進んでいきます。
夫と死別し、シングルマザーとして一人娘の深草を育てている照恵は亡くなった台湾出身の父・文雄の遺骨を探して奔走します。
その中で長年音信不通だった弟・武則と再会し、照恵は母との過去の記憶をひとつひとつ思い出していきます。
詳細は実際に映画を見ていただくこととして、この映画では、幼い照恵に激しい折檻を加え、虐待する原田さんの体当りの演技が話題となり、高く評価されました。
私は、過去に映画『鬼畜』を見た際にも、子どもに折檻を加える岩下志麻さんの演技に、釘付けになりました。
詳細は、過去記事参照。
今回も、折檻のシーンでやはり母の姿を見つけ、またもや懐かしい気持ちになりました。
特に布団たたき(?)で照恵が豊子に滅多打ちにされるシーンは、全く同じことをされたことがあるのを思い出したとともに、布団たたきを使うのは普遍的なんだなぁ、なんて思ってしまいました。
また、折檻の恐怖で吐いてしまった照恵に豊子が辛く当たるシーンも、私も吐いてしまったらよく両親から「飲み込め!!」と怒号が飛んできたのを思い出しました。
他にも、折檻シーンは『鬼畜』と同じく、懐かしい光景のオンパレードでした。
違ったのは、私は両親から同じような目に遭っていたこと、
そして『愛を乞うひと』では長子の照恵だけが折檻され、次子である弟の武則は無被害なのですが、
私の場合は、長子が無被害で次子である私だけが辛く当たられていたことです。
また、映画の中で照恵は豊子が加えた折檻により、額に傷が残ったり、日々満身創痍だったりします。
私の場合は、そこまで酷い折檻は受けていません。
せいぜい赤く腫れる程度で、身体に物理的な傷が残ってはいません。
ただ、映画の中で照恵が豊子に言われるように、
- お前(私の場合は、“アンタ”)なんか生みたくなかった
- しょうがなくて生んだ
- 可愛くない
という言葉は、毎日のように言われていました。
実際に、母からは「アンタのことを可愛いと思ったことは一度もない」と言われ、よく叩かれたり、紐でぐるぐるに縛られて押し入れに入れられたりしていました。
両親から叩かれた身体の痛みと傷は、いつかは消えます。
しかし、両親から言葉によって受けた心の傷とその痛みは、今に至るまで癒えてはいません。
幼い照恵が、亡くなった実父に「迎えに来てほしい」と救いを求めるように、幼いころの私も、長子との待遇の差に「私の本当の両親は別のところにいるのだ」、「今いる両親とは血がつながっていないのだ」と信じていました。
ーー実際には、しっかりと血がつながっていて、心底驚いたのですが。
近所の小母さま方も、そんな私の様子を見かねて、「長子との待遇差はあんまりではないのか」と何度か両親を諫めてくれたことがあります。
しかし結局、両親の態度が変わることはありませんでした。
実は幼少期に別の土地へ引っ越しましたが、小母さま方の中のひとりは、周りの目が届かなくなることを心配し
「あなたがちゃんと元気に過ごしているのか、確認しに来るからね」
と言ってくださった上に、本当に何度か会いに来てくださいました。
会いに来てくださった際には、両親にわからぬよう「大丈夫?」と細かく日々の様子を聞いてくださって、わが子のように心配していただきました。
映画の中で、父の遺骨をようやく発見した照恵は、勇気を出して娘・深草と共に母・豊子に会いに行く決心をします。
照恵が素性を明かさぬまま、豊子に前髪を切ってもらうシーン、やはり娘であることを告げられなかったものの、やっとの思いで「お元気で」と豊子に告げるシーンの原田さんの演技は、言葉は少ないものの、視線だけで巧みに感情が表現されており、本当に心に迫るものがあります。
豊子も、娘・照恵であることに気付きつつも、何も告げず見送ります。
母娘の今生の別れの後、帰りのバスの中で、
やっと母さんにさよならが言えた
と母・豊子への慕情を必死で断ち切り、
母さんに、「お前のことが可愛いよ」と言ってもらいたかった
と吐露する照恵に、深草が「お母さん可愛いよ」と言い、照恵が泣きだしてしまうシーンでは、私も涙が落ちてきました。
ぽとぽと、ぽたぽた、たくさん涙が落ちてきて、止められませんでした。
私も、一度でいい、母に「可愛いよ」と言ってもらいたかった。
この映画を見て、『愛を乞うひと』とは一体誰なのだろうと考えました。
きっとそれは豊子であり、照恵であり、文雄であり、武則であり、そして観客である私なのだろう、と思いました。
皆さんは、どうお感じになるでしょうか。
「可哀想な人物」
日常生活でやらなければならないことが山積みなのに、どうしてもやる気が起きません。
今、少し精神的に落ち込んでいる時期にあるように自分では思っています。
季節的なものもあるのでしょうし、今住んでいる物件が少し問題があって、騒音問題で夜が全く眠れないのも影響していると思っています。
一応、管理人には伝えているのですが、返ってきた返事は「仕方が無い」の一言で、予想はしていたものの、やはりイライラしてしまいます。
とはいえ、引っ越す金銭的余裕もないですし、何とかこちらで対策を立てるしかないようです。
そんな出来事なども重なり、自分がなすべきことが滞ってしまっています。
こんな時、いつも考えてしまうのが、
母によって妨害されていなかったら、
父によって妨害されていなかったら、
私の人生はもう少し生きやすかったのだろうか、ということです。
大分時間が経ってから気付いた(というか、母本人から武勇伝のように語られてしまった)のですが、
私は、今までただの一度も、自分の望み通りに人生を歩めていませんでした。
実は自分では、ずっと自分の望み通りに歩んできた人生だと思っていました。
しかし、重要な局面で、母から、父から、私の思い通りにならないようにと手を回され、失敗するよう操作されていたのです。
実の両親から、「鬼・悪魔」と評価されている私ではありますが、実は、最も親の言うことを聞き、親の思い通りに動かされていたのが、紛れもない私だったのです。
そして、問題の長子、両親にとっては育てづらくとも最愛の長子こそ、自分の思いのままに生きているのだ、とあるとき気付き、本当に苦しかったです。
それなのに長子は、今でも自分のことを「親の言いなりに生きてきた、可哀想な人物」となぜか思い込んでいます。
でも、私から見ると、長子こそ、自分の思いのままに人生を生きているのです。
両親からは何ら妨害されることなく、
また、金銭の心配も一切することなく自分の望む進路に進み、
もちろん借金もなく、
学生時代にはアルバイトの経験すらなく、
今に至るまで、一度も衣食住の心配をしたことが無いのは、長子です。
私は、同じ家庭に育っていながら、常に金銭の心配をして育ちました。
義務教育の時ですら、学校などで使う教材も、長子は買ってもらえても私は買ってもらえず、学校で使わなければならない時には、長子に借りに行かねばなりませんでした。
しかし、長子は何度お願いしても貸してくれないので授業に間に合わず、先生に「忘れました」と何度も言ったことがあります。
その当時も虚しかったし、恥ずかしかったし、惨めでした。
今思い出しても、同じ気持ちになります。
また、大人になってから知ってびっくりしたのですが、一般の家庭では、次子以降のためにと、長子には進学の際など、なるべく金銭負担の少ない国公立学校に進むよう、プレッシャーをかけられるのだそうです。
私の場合は真逆で、「アンタにかけるお金はない」と言われて育ちましたので、行きたかった私学をあきらめ、国公立学校に進学せざるを得ませんでした。
通学のために使う自転車なども、自分でお金を貯めて買うしかありませんでした。
高校は地域のトップ進学校に通ってはいましたが、オプションで(といっても、生徒ほぼ全員が)受ける全国模試の費用がないので、奨学金を借りました。
大学受験の費用も、両親は一円も出してくれませんでしたので、自分で用意しました。
国立大学に入ってからも、通学定期代や教科書代、洋服代のため、アルバイト三昧でした。
そんな中、長子は金銭面での心配を一切することなく、望み通りに進学し、アルバイトもせずに、教科書も洋服もすべて親に買ってもらい、親のお金で優雅に暮らしていました。
そして私に、「よくそんなにアルバイトできるね」と、嫌味まで言っていました。
悔しかったです。
アルバイトをしなければ、当時の私は毎日のランチ代にも困っていました。
長子が毎日母からお弁当を作ってもらい、それがない時にはランチ代をもらっていたのは知っていましたが、私には、それは当然ありませんでした。
でも、家庭内での序列は常に長子が最高位にありましたから、仕方のないことなのだ、と思うようにしていました。
ですから、色々なことに気付き目が醒めた時の衝撃たるや、凄まじいものがありました。
客観的に見れば、私こそ、紛れもなく「親の言いなりに生きてきた、可哀想な人物」だったからです。
考えてみても、長子がなぜ自分のことを「親の言いなりに生きてきた、可哀想な人物」と今でも思っているのか、見当すらつきません。
あなたは、望むまま、思うままに人生を歩んでいるよ。
借金も空腹に悩んだこともない、幸せな、とても羨ましい人生だよ。
そう長子には言ってあげたいのですが、長子は自分自身を「親の言いなりに生きてきた、可哀想な人物」と思い込んでそれを曲げませんので、伝わりません。
しかし今でも、主観的には、私は自分のことを幸せな人物だと思っています。
そう思い込まなければ、とても持たない。
そんな気がしているからかもしれませんが。
『夢を与える』
以前、菊地凛子さんと小松菜奈さんの出演ドラマ『夢を与える』を見て、その内容と小松菜奈さんの演技にとても惹かれました。
それ以降、小松菜奈さんのことを何かと注目してしまいます。
それほど、私にはとても魅力的に映る演技をされていました。
ドラマの中で、いまだにハッキリと印象に残っているシーンがあります。
それは、不祥事を起こし世間に大きく注目され、自分の意志とは無関係にマスコミに追い掛け回される生活と周りの大人たちの反応にいらだった、国民的芸能人の夕子(演:小松菜奈さん)が、母親兼マネージャーの幹子(演:菊地凛子さん)に、
「私はお母さんの操り人形じゃない!」
と感情を爆発させる場面です。
なぜいまだにこんなに深く印象に残っているのかというと、その場面での小松さん演じる夕子の衣装が、
(記憶が確かならば)タンクトップといちごが編み込まれた毛糸のパンツ姿だった、というのもあるのですが(笑)、
私がずっと言いたかった言葉だったから、というのがその最大の理由です。
私は、今も昔も、ずっと、母の操り人形です。
母の呪縛から現在も逃れられず、もがいています。
このドラマで興味が出たので、原作を読んでみたいと思っていたところ、綿矢りささんの同名小説『夢を与える』がそうであると知りました。
しかし、該当の夢を与える - Wikipediaで見る限り、ドラマと小説は結末等異なるところが多く、しかも、作者の綿矢さんをして、
ハッピーな話ではなく、ラストもかなり暗い
(出典:夢を与える - e-hon)
と言わしめた原作を読む勇気が出ず、未だに手付かずです。
それにしても、「夢を与える」という言葉には、私もずっと違和感を抱いてきました。
この言葉、昨今の日本に溢れているように思います。
しかし、夢って、人に“与えることのできる”ものなのでしょうか。
第三者の言動や存在などに触れて、受け手が勝手に“与えられた”と感じ取るだけで、主体的に作用できるものではない、と私には思えるのです。
さて、皆さんは誰かに夢を与えることはできますか?
自覚している「わたし」
随分とここを留守にしていました。
その間、心の状態が良い時もあれば、そうでない時もありましたが、何となくブログを書く気になれませんでした。
しかし、季節のせいでしょうか、最近また過去に苦しむことが多くなり、ようやくここに戻ろうという気になれました。
あまりに久々なので、必要ないかとは思いますが、このブログの趣旨を簡単にご説明します。
このブログは、親子(特に母娘)関係に悩む「みみずく」が、過去の感情や親から受けた仕打ちを赦し、そして乗り越え、新しいステップを踏み出す勇気を得るために開設しています。
詳しくは、最初のポストをご参照ください。
ここは、ポジティブになれる力強い言葉が並んでいる、キラキラと眩しいブログではありませんが、同じような経験をお持ちの方と感情を共有できると嬉しいなと思い、細々と綴っています。
さて、今日は自己紹介を兼ねて、再び「わたし」について徒然に綴ってみたいと思います。
一言に「わたし」といっても、どなたでもそうだとは思いますが、多面的に見ることができると思います。
(以下、便宜的に「わたし」を「私」と表記します。)
対外的に、
- 行動的
- しっかりしている
- 社交的
- 誰にでも優しい
などとありがたくも評価していただくことが多い私ですが、面白いことに、自覚している私は上記のひとつも当てはまりません。
また、実の親からは、
- 暴君
- 自分勝手
- 性格が悪い
- 鬼・悪魔
などと評価されています。(本当はもっと酷いのですが)
今思うと、(というか現在もそうですが)私の育った「家庭」というものは、所謂“機能不全家庭”でした。
信頼関係を築いていなければならない夫婦間にも、信頼というものが存在しませんでした。
夫婦間の相互理解も、同じく存在しませんでした。
また、育てづらい、ちょっと変わった長子も抱えていました。
よって、家族の中で“標的”を定め、その人物を徹底的に悪者にし、対内・対外的に悪しざまに罵ることでようやく、“家族”として団結していたのです。
時に、その“標的”は短期間、入れ替わることがありましたが、大体において私がその役目を引き受けさせられていました。
それは、現在においても変わっていません。
よって私は、親族やご近所内でも、実の親が吹聴する如く、
- 暴君
- 自分勝手
- 性格が悪い
- 鬼・悪魔
といった存在として認識されています。
私はひとりしか存在していないはずなのですが、この真っ二つの評価を見る限り、同一人物には見えないように思います。
それとも、私は実は多重人格で、私の中に複数人が存在しているのでしょうか。
――それはそれで、興味深く感じます。
でも実際には、やはりそんなことはないのです。
事実として、私はひとりしか存在していないのです。
そんな私が自覚している「わたし」。
それは、
- 臆病
- 気が小さい
- 誰のことも信用・信頼できない
- 肝心なことは言葉(口)にできない
というものです。
臆病なので、誰にも本音は話したことがありません。というか、話せません。
気が小さいので、周りの不興を買わないよう、細心の注意を払って接しています。
まだ親からの呪縛が解けていなかった頃、親を信用して色々と話していましたが、結果として、それがすべて失敗するよう、ことごとく手を回されていました。
よって、誰のことも信用できません。もちろん、誰のことも信頼していません。
以上の経験から、希望や夢、願望を言葉にしてしまうと必ず失敗する、とのトラウマが植えつけられ、肝心なことは決して口にできません。
上記が、自覚している「わたし」です。
さて、やはり私は複数存在するのでしょうか。
皆さんは、どうお感じになるでしょう。