母がしんどい

親子関係(特に母娘関係)って難しい。無条件に子を愛せる母親ばかりではないし、親からの愛情は無条件に注がれるものでもない。どうして母娘関係は上手く行かないことが多いのか。母の過去の行動から「母娘関係」の分析を試みます。

「可哀想な人物」

日常生活でやらなければならないことが山積みなのに、どうしてもやる気が起きません。

今、少し精神的に落ち込んでいる時期にあるように自分では思っています。

季節的なものもあるのでしょうし、今住んでいる物件が少し問題があって、騒音問題で夜が全く眠れないのも影響していると思っています。

一応、管理人には伝えているのですが、返ってきた返事は「仕方が無い」の一言で、予想はしていたものの、やはりイライラしてしまいます。

とはいえ、引っ越す金銭的余裕もないですし、何とかこちらで対策を立てるしかないようです。

そんな出来事なども重なり、自分がなすべきことが滞ってしまっています。

 

こんな時、いつも考えてしまうのが、

母によって妨害されていなかったら、

父によって妨害されていなかったら、

私の人生はもう少し生きやすかったのだろうか、ということです。

 

大分時間が経ってから気付いた(というか、母本人から武勇伝のように語られてしまった)のですが、

 

私は、今までただの一度も、自分の望み通りに人生を歩めていませんでした。

 

実は自分では、ずっと自分の望み通りに歩んできた人生だと思っていました。

しかし、重要な局面で、母から、父から、私の思い通りにならないようにと手を回され、失敗するよう操作されていたのです。

 

実の両親から、「鬼・悪魔」と評価されている私ではありますが、実は、最も親の言うことを聞き、親の思い通りに動かされていたのが、紛れもない私だったのです。

そして、問題の長子、両親にとっては育てづらくとも最愛の長子こそ、自分の思いのままに生きているのだ、とあるとき気付き、本当に苦しかったです。

 

それなのに長子は、今でも自分のことを「親の言いなりに生きてきた、可哀想な人物」となぜか思い込んでいます。

でも、私から見ると、長子こそ、自分の思いのままに人生を生きているのです。

 

両親からは何ら妨害されることなく、

また、金銭の心配も一切することなく自分の望む進路に進み、

もちろん借金もなく、

学生時代にはアルバイトの経験すらなく、

今に至るまで、一度も衣食住の心配をしたことが無いのは、長子です。

 

私は、同じ家庭に育っていながら、常に金銭の心配をして育ちました。

義務教育の時ですら、学校などで使う教材も、長子は買ってもらえても私は買ってもらえず、学校で使わなければならない時には、長子に借りに行かねばなりませんでした。

しかし、長子は何度お願いしても貸してくれないので授業に間に合わず、先生に「忘れました」と何度も言ったことがあります。

その当時も虚しかったし、恥ずかしかったし、惨めでした。

今思い出しても、同じ気持ちになります。

 

また、大人になってから知ってびっくりしたのですが、一般の家庭では、次子以降のためにと、長子には進学の際など、なるべく金銭負担の少ない国公立学校に進むよう、プレッシャーをかけられるのだそうです。

私の場合は真逆で、「アンタにかけるお金はない」と言われて育ちましたので、行きたかった私学をあきらめ、国公立学校に進学せざるを得ませんでした。

通学のために使う自転車なども、自分でお金を貯めて買うしかありませんでした。

 

高校は地域のトップ進学校に通ってはいましたが、オプションで(といっても、生徒ほぼ全員が)受ける全国模試の費用がないので、奨学金を借りました。

大学受験の費用も、両親は一円も出してくれませんでしたので、自分で用意しました。

 

国立大学に入ってからも、通学定期代や教科書代、洋服代のため、アルバイト三昧でした。

そんな中、長子は金銭面での心配を一切することなく、望み通りに進学し、アルバイトもせずに、教科書も洋服もすべて親に買ってもらい、親のお金で優雅に暮らしていました。

そして私に、「よくそんなにアルバイトできるね」と、嫌味まで言っていました。

悔しかったです。

アルバイトをしなければ、当時の私は毎日のランチ代にも困っていました。

長子が毎日母からお弁当を作ってもらい、それがない時にはランチ代をもらっていたのは知っていましたが、私には、それは当然ありませんでした。

でも、家庭内での序列は常に長子が最高位にありましたから、仕方のないことなのだ、と思うようにしていました。

 

ですから、色々なことに気付き目が醒めた時の衝撃たるや、凄まじいものがありました。

 

客観的に見れば、私こそ、紛れもなく「親の言いなりに生きてきた、可哀想な人物」だったからです。

 

考えてみても、長子がなぜ自分のことを「親の言いなりに生きてきた、可哀想な人物」と今でも思っているのか、見当すらつきません。

 

あなたは、望むまま、思うままに人生を歩んでいるよ。

借金も空腹に悩んだこともない、幸せな、とても羨ましい人生だよ。

 

そう長子には言ってあげたいのですが、長子は自分自身を「親の言いなりに生きてきた、可哀想な人物」と思い込んでそれを曲げませんので、伝わりません。

 

しかし今でも、主観的には、私は自分のことを幸せな人物だと思っています。

 

そう思い込まなければ、とても持たない。

そんな気がしているからかもしれませんが。

『夢を与える』

以前、菊地凛子さんと小松菜奈さんの出演ドラマ『夢を与える』を見て、その内容と小松菜奈さんの演技にとても惹かれました。

それ以降、小松菜奈さんのことを何かと注目してしまいます。

それほど、私にはとても魅力的に映る演技をされていました。

連続ドラマW 夢を与える [DVD]

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ドラマの中で、いまだにハッキリと印象に残っているシーンがあります。

それは、不祥事を起こし世間に大きく注目され、自分の意志とは無関係にマスコミに追い掛け回される生活と周りの大人たちの反応にいらだった、国民的芸能人の夕子(演:小松菜奈さん)が、母親兼マネージャーの幹子(演:菊地凛子さん)に、

 

「私はお母さんの操り人形じゃない!」

 

と感情を爆発させる場面です。

 

なぜいまだにこんなに深く印象に残っているのかというと、その場面での小松さん演じる夕子の衣装が、

(記憶が確かならば)タンクトップといちごが編み込まれた毛糸のパンツ姿だった、というのもあるのですが(笑)、

私がずっと言いたかった言葉だったから、というのがその最大の理由です。

 

私は、今も昔も、ずっと、母の操り人形です。

母の呪縛から現在も逃れられず、もがいています。

 

このドラマで興味が出たので、原作を読んでみたいと思っていたところ、綿矢りささんの同名小説『夢を与える』がそうであると知りました。

夢を与える (河出文庫)

夢を与える (河出文庫)

 

しかし、該当の夢を与える - Wikipediaで見る限り、ドラマと小説は結末等異なるところが多く、しかも、作者の綿矢さんをして、

 ハッピーな話ではなく、ラストもかなり暗い

(出典:夢を与える - e-hon

 と言わしめた原作を読む勇気が出ず、未だに手付かずです。

 

それにしても、「夢を与える」という言葉には、私もずっと違和感を抱いてきました。

この言葉、昨今の日本に溢れているように思います。

しかし、夢って、人に“与えることのできる”ものなのでしょうか。

第三者の言動や存在などに触れて、受け手が勝手に“与えられた”と感じ取るだけで、主体的に作用できるものではない、と私には思えるのです。

さて、皆さんは誰かに夢を与えることはできますか?

自覚している「わたし」

随分とここを留守にしていました。

その間、心の状態が良い時もあれば、そうでない時もありましたが、何となくブログを書く気になれませんでした。

しかし、季節のせいでしょうか、最近また過去に苦しむことが多くなり、ようやくここに戻ろうという気になれました。

 

あまりに久々なので、必要ないかとは思いますが、このブログの趣旨を簡単にご説明します。

このブログは、親子(特に母娘)関係に悩む「みみずく」が、過去の感情や親から受けた仕打ちを赦し、そして乗り越え、新しいステップを踏み出す勇気を得るために開設しています。

詳しくは、最初のポストをご参照ください。

oyasumimizuku.hatenadiary.com

ここは、ポジティブになれる力強い言葉が並んでいる、キラキラと眩しいブログではありませんが、同じような経験をお持ちの方と感情を共有できると嬉しいなと思い、細々と綴っています。

 

さて、今日は自己紹介を兼ねて、再び「わたし」について徒然に綴ってみたいと思います。

一言に「わたし」といっても、どなたでもそうだとは思いますが、多面的に見ることができると思います。

(以下、便宜的に「わたし」を「私」と表記します。)

 

対外的に、

  • 行動的
  • しっかりしている
  • 社交的
  • 誰にでも優しい

などとありがたくも評価していただくことが多い私ですが、面白いことに、自覚している私は上記のひとつも当てはまりません。

 

また、実の親からは、

  • 暴君
  • 自分勝手
  • 性格が悪い
  • 鬼・悪魔

などと評価されています。(本当はもっと酷いのですが)

 

今思うと、(というか現在もそうですが)私の育った「家庭」というものは、所謂“機能不全家庭”でした。

信頼関係を築いていなければならない夫婦間にも、信頼というものが存在しませんでした。

夫婦間の相互理解も、同じく存在しませんでした。

また、育てづらい、ちょっと変わった長子も抱えていました。

よって、家族の中で“標的”を定め、その人物を徹底的に悪者にし、対内・対外的に悪しざまに罵ることでようやく、“家族”として団結していたのです。

時に、その“標的”は短期間、入れ替わることがありましたが、大体において私がその役目を引き受けさせられていました。

それは、現在においても変わっていません。

 

よって私は、親族やご近所内でも、実の親が吹聴する如く、 

  • 暴君
  • 自分勝手
  • 性格が悪い
  • 鬼・悪魔

といった存在として認識されています。

 

私はひとりしか存在していないはずなのですが、この真っ二つの評価を見る限り、同一人物には見えないように思います。

それとも、私は実は多重人格で、私の中に複数人が存在しているのでしょうか。

――それはそれで、興味深く感じます。

 

でも実際には、やはりそんなことはないのです。

事実として、私はひとりしか存在していないのです。

 

そんな私が自覚している「わたし」。

それは、

  • 臆病
  • 気が小さい
  • 誰のことも信用・信頼できない
  • 肝心なことは言葉(口)にできない

というものです。

 

臆病なので、誰にも本音は話したことがありません。というか、話せません。

気が小さいので、周りの不興を買わないよう、細心の注意を払って接しています。

まだ親からの呪縛が解けていなかった頃、親を信用して色々と話していましたが、結果として、それがすべて失敗するよう、ことごとく手を回されていました。

よって、誰のことも信用できません。もちろん、誰のことも信頼していません。

以上の経験から、希望や夢、願望を言葉にしてしまうと必ず失敗する、とのトラウマが植えつけられ、肝心なことは決して口にできません。

 

上記が、自覚している「わたし」です。

さて、やはり私は複数存在するのでしょうか。

 

皆さんは、どうお感じになるでしょう。

 

無事を祈っています

ニュース記事を読んでいて、今最も気になっているのがこれです。

www.asahi.com

まだ7歳という幼い年齢と所持品や服装、そして行方不明となった当日及びその後の周辺地の気温、そして何より、想像以上に広大なように思われる、現場の状況…。

とても心配しています。

男の子が早く保護されて、温かい場所で美味しいものを食べて、安心して欲しいと願っています。

 

それにしても驚いたのは、私が育ったような、昭和の一昔前の時代ならまだしも、昨今の子どもを取り巻く環境すら厳しい社会情勢下でも、「躾」や「仕置き」と称した“置き去り”がなされている、という悲しい現実です。

 

私を含め、一昔前に子どもだった世代は、現在では信じられないような、「教育」と称した“仕打ち”を実の親に受けて育った人も少なくないと思います。

しかしそれは、社会が以前に増して複雑化して、「世間様」がほとんど機能しなくなっている現在では、到底受け入れられ難い、子どもを危険にさらす準犯罪行為なのではないでしょうか。

 

この件に関して、ネットでも「自分も幼少時にされた」との意見が多くみられ、両親を擁護する意見も散見されますが、この“仕打ち”は、果たして肯定されるべきものなのでしょうか。

自分の子ども時代を比較対象にあげている人に対しては、子どもを取り巻く環境条件が全く異なる現在と一昔前とは、同一の比較条件下にないので、そもそも比較が難しいのではないか、ということを申し上げたいと思っています。

第一、自分が大昔にされたからといって、このような親の“仕打ち”は、決して肯定されてはならないと思っています。

 

幼いころに自分も親から似たような“仕打ち”を受けたからこそ、私のように他人事とは思えず、心配されている方ももちろんたくさんいらっしゃることと思います。

男の子の早期保護を心から願うとともに、このような“仕打ち”を受ける子どもがひとりでも少なくなることを切に祈ります。

小さくなる存在

随分と長い間、ここを留守にしていました。

ところが、ありがたいことにアクセスが「0」ではない日もあるようで、わざわざご訪問下さっている方の存在に、心より感謝申し上げます。

 

このブログの記事の更新が滞りがちであるのは、ひとえに私の中の「母の存在」が次第に小さくなっているからだと、自己分析しています。

それほど、母の存在と母が私に与えた影響というものは強大でした。

 

母は陰に陽に常に私を支配し続け、常に私の自由を奪い、常に私の気力を削ぐ存在であり続けました。

とはいえ、ずっとそのことに気付かずに来たのですが、それに気付いてからが、私の苦しみの始まりでした。

長子と私の待遇の格差には、母の私に対する「嫉妬」があったからなのだとようやく気付き、実子であっても、母の嫉妬と「憎しみ」の対象であり続けなければならない自分の存在を、誰にどうやって肯定してもらえばよいのかわからず、鬱々と過ごしてきました。

血のつながった実子であっても、母親というものは「娘」という存在にこのような仕打ちができるのか、と母を憎む気持ちが生まれ、そんな自分に恐怖すら感じていました。

母が私にした仕打ちに気付きさえしなければ、私はこんなに苦しむことはなかった。

そう思えば思うほど、私の人生は難しい方向へと進んで行きました。

 

しかし、そんな自分と決別したいとこのブログを始めて、誰に読んでいただこうと思うわけでもなく少しづつ母とのことを綴っていくと、今度は段々と母を理解できたような気持ちになり、憎しみも少しずつ解けて行っているように感じています。

 

もちろん、母への憎しみが完全に消えたわけではありません。

でも、あれだけ怯えていた、振り払っても振り払っても消えることのない、静なる恐怖を呼び起こす母という空恐ろしい存在が、私の中で確実に小さくなっているように思うのです。

逃れたくても逃れられないと諦めていた母の支配から、少しづつ解放されている兆候なのかもしれません。

 

まだ完全に母の支配から逃れられた訳ではなく、波があるのですが、また波に飲み込まれ、負の感情に溺れそうになったら、ここに吐き出しに来たいと思っています。

 

超不定期の更新になりますが、ここを長期不在にしている時には、ああ、良い兆候にあるのだな、とご理解いただければ幸いです。

Letters

音楽には全く詳しくないのですが、聞くのはジャンル・言語を問わず大好きです。

邦楽では、宇多田ヒカルさんを良く聞いていました。

現在は活動休止中ではありますが、今も聞き返しては名曲揃いだなぁと感心しています。

歌の上手さって、リズムや音程の正確さもさることながら発音の良さもあるんだな、と思わせてくれたのが彼女でした。

よく話題になるのが彼女の英語の発音ですが、私は日本語の発音の良さこそ宇多田ヒカルさんの持ち味なんじゃないかと勝手に思っています。

 

というのは、宇多田さんって濁音にきちんと鼻音を使っていらっしゃるんですね。

これは、他の邦楽アーティストに比べごく稀なことで、彼女の歌声が卓越している理由のひとつなのではないかと思っています。

だから、歌声を聞いていてとても心地良いのではないかと思っています。

 

最近また宇多田さんの曲を聞き返していて、ふと気づいたことがあります。

それは、名曲『Letters』の「君」「あなた」の解釈です。

www.kasi-time.com

SAKURAドロップス/Letters

SAKURAドロップス/Letters

 

 

ずっと、「君」「あなた」は男性なんだろうと思って聞いてきました。

しかし、「君」「あなた」が「母親」でも解釈的には通るな、と。

「年上の人」は放浪する「母親」=妻を束縛することなく見守っている「父親」かな、と。

身内目線で家族を見ないのが何となく彼女らしい気がして。

それは、宇多田さんのお母さまがご不幸に見舞われた時の公式HPのコメントの印象が強く残っているからかもしれません。

また、私も幼少期から宇多田さんとは性質は異なるものの、「母親」に置き去りにされた経験があるので、勝手にそう解釈してしまうだけかもしれませんが。

 

「母親」の愛情を求め続ける「私」、居場所を探し続けてさまよう「母親」への複雑な愛情を訴える「私」の歌だと考えると、個人的には一番しっくりきます。

特に、日本語歌詞最後の

今度急にいなくなる時は 何もいらないよ

には、何度も「母親」に期待してはそれが叶わなかった自分の姿を勝手に重ね合わせてしまいます。

最後の英語詞に、「leave」という単語が繰り返し出てくることからも、ますますそう解釈してしまっています。

 

このように、何度聞いても、年を重ねるごとに色々な解釈ができる歌詞を書く才能も、宇多田さんの魅力のひとつだと思っています。

皆さんはどのように解釈なさるでしょうか。

天井とお粥

物心つく前から、両親の関心が自分に全くない、ということは痛いほど理解していました。

例えば、病気の際。

実は、ほとんど病院に連れて行ってもらったことがありません。

私は両親にとって、いてもいなくてもどうでも良い存在だったからです。

長子と私の両方に高熱が出ても、私は当時住んでいた家の二階にあった畳の間に布団を敷かれて、ひとりで寝かされるだけでした。

病院に連れていかれるのは、いつも長子のみです。

ですから、ごくまれに病院に連れて行ってもらえると、とても嬉しくてはしゃいでしまい、医者に「こんな元気な子をどうして病院に連れてきたのだ」と言われてしまうほどでした。

大人になった今でも、病院に行くのは特別な感じがして、病気なのに嬉しさがあります。

 

小さい頃の経験で今でも覚えているのが、熱の出た身体でゴロゴロと布団の外に転がり出ると、ひんやりとした畳の感触が気持ちよかったことです。

またゴロゴロと布団の中に戻ってはまた転がり出るのを繰り返すと、母が長子を連れて病院から戻るまで寝るか、ひたすら天井を見上げていました。

母が長子を連れて戻ってきても、私はそのまま畳の間に寝かされ、自力で一階に降りていけるようになるまで、そのまま放置されていました。

何度も見つめていた天井の模様は、今でも目に焼き付いています。

 

当時も今も、病院になぜ連れて行ってもらえなかったのか、疑問には思っていません。

わが家には厳然とした「序列」があり、第二子である私は両親から関心すら持たれていませんでしたし、「厄介者」の私に万一何かあったとしても、ご近所の目を意識して儀礼的に流すのを除けば、誰も涙すら流さず、誰一人悲しみもしなかったんじゃないかと思います。

それに、幼子を二人も連れて病院に行かなければならない母の身としても、庇護するべき対象である長子のみを連れていくことに、何の疑問もなかったと思います。

同じように熱を出しても、私はひとりで寝かされ、長子だけ病院に連れて行ってもらい、両親は涙を流さんばかりに心配し、あれやこれやと世話を焼く。

何度か触れてきましたが、長子は、言葉でコミュニケーションを取るのが今も昔も不得手です。

それは、小さい頃から親が先回りしてあれやこれやと世話を焼いてきたので、今更自分の言葉で自分のことを他人に伝えきれないからです。

今でも、長子は自分以外の誰かが自分のことを自分以上に理解してくれて、自分に代わって他の誰かに説明してくれるのだ、と本気で思っている節があります。

これはこれで、大変不幸なことだと思っています。

 

ところで、病気の際、畳の間にひとり寝かされることを当然のこととして大人になり、ひとつ驚いたことがあります。

それは、「病気の際には、どうやらお粥というものを食べるらしい」ということです。

病気になっても、私は“お粥”というものを作ってもらったことが無いので、長らく存在すら知りませんでした。

大人になってから、「風邪を引いてしまった」と言うと、複数の友人が“お粥”というものを作って持ってきてくれて、ようやくその存在と役目を知りました。

しかし、今でも“お粥”を食べ慣れないので、病気の時に食べたいとは思いません。

病気の際は、今でも、自力で起き上がれるようになるまで、飲まず食わずで布団の中に転がっているものだ、と思っています。