母がしんどい

親子関係(特に母娘関係)って難しい。無条件に子を愛せる母親ばかりではないし、親からの愛情は無条件に注がれるものでもない。どうして母娘関係は上手く行かないことが多いのか。母の過去の行動から「母娘関係」の分析を試みます。

自覚している「わたし」

随分とここを留守にしていました。

その間、心の状態が良い時もあれば、そうでない時もありましたが、何となくブログを書く気になれませんでした。

しかし、季節のせいでしょうか、最近また過去に苦しむことが多くなり、ようやくここに戻ろうという気になれました。

 

あまりに久々なので、必要ないかとは思いますが、このブログの趣旨を簡単にご説明します。

このブログは、親子(特に母娘)関係に悩む「みみずく」が、過去の感情や親から受けた仕打ちを赦し、そして乗り越え、新しいステップを踏み出す勇気を得るために開設しています。

詳しくは、最初のポストをご参照ください。

oyasumimizuku.hatenadiary.com

ここは、ポジティブになれる力強い言葉が並んでいる、キラキラと眩しいブログではありませんが、同じような経験をお持ちの方と感情を共有できると嬉しいなと思い、細々と綴っています。

 

さて、今日は自己紹介を兼ねて、再び「わたし」について徒然に綴ってみたいと思います。

一言に「わたし」といっても、どなたでもそうだとは思いますが、多面的に見ることができると思います。

(以下、便宜的に「わたし」を「私」と表記します。)

 

対外的に、

  • 行動的
  • しっかりしている
  • 社交的
  • 誰にでも優しい

などとありがたくも評価していただくことが多い私ですが、面白いことに、自覚している私は上記のひとつも当てはまりません。

 

また、実の親からは、

  • 暴君
  • 自分勝手
  • 性格が悪い
  • 鬼・悪魔

などと評価されています。(本当はもっと酷いのですが)

 

今思うと、(というか現在もそうですが)私の育った「家庭」というものは、所謂“機能不全家庭”でした。

信頼関係を築いていなければならない夫婦間にも、信頼というものが存在しませんでした。

夫婦間の相互理解も、同じく存在しませんでした。

また、育てづらい、ちょっと変わった長子も抱えていました。

よって、家族の中で“標的”を定め、その人物を徹底的に悪者にし、対内・対外的に悪しざまに罵ることでようやく、“家族”として団結していたのです。

時に、その“標的”は短期間、入れ替わることがありましたが、大体において私がその役目を引き受けさせられていました。

それは、現在においても変わっていません。

 

よって私は、親族やご近所内でも、実の親が吹聴する如く、 

  • 暴君
  • 自分勝手
  • 性格が悪い
  • 鬼・悪魔

といった存在として認識されています。

 

私はひとりしか存在していないはずなのですが、この真っ二つの評価を見る限り、同一人物には見えないように思います。

それとも、私は実は多重人格で、私の中に複数人が存在しているのでしょうか。

――それはそれで、興味深く感じます。

 

でも実際には、やはりそんなことはないのです。

事実として、私はひとりしか存在していないのです。

 

そんな私が自覚している「わたし」。

それは、

  • 臆病
  • 気が小さい
  • 誰のことも信用・信頼できない
  • 肝心なことは言葉(口)にできない

というものです。

 

臆病なので、誰にも本音は話したことがありません。というか、話せません。

気が小さいので、周りの不興を買わないよう、細心の注意を払って接しています。

まだ親からの呪縛が解けていなかった頃、親を信用して色々と話していましたが、結果として、それがすべて失敗するよう、ことごとく手を回されていました。

よって、誰のことも信用できません。もちろん、誰のことも信頼していません。

以上の経験から、希望や夢、願望を言葉にしてしまうと必ず失敗する、とのトラウマが植えつけられ、肝心なことは決して口にできません。

 

上記が、自覚している「わたし」です。

さて、やはり私は複数存在するのでしょうか。

 

皆さんは、どうお感じになるでしょう。

 

無事を祈っています

ニュース記事を読んでいて、今最も気になっているのがこれです。

www.asahi.com

まだ7歳という幼い年齢と所持品や服装、そして行方不明となった当日及びその後の周辺地の気温、そして何より、想像以上に広大なように思われる、現場の状況…。

とても心配しています。

男の子が早く保護されて、温かい場所で美味しいものを食べて、安心して欲しいと願っています。

 

それにしても驚いたのは、私が育ったような、昭和の一昔前の時代ならまだしも、昨今の子どもを取り巻く環境すら厳しい社会情勢下でも、「躾」や「仕置き」と称した“置き去り”がなされている、という悲しい現実です。

 

私を含め、一昔前に子どもだった世代は、現在では信じられないような、「教育」と称した“仕打ち”を実の親に受けて育った人も少なくないと思います。

しかしそれは、社会が以前に増して複雑化して、「世間様」がほとんど機能しなくなっている現在では、到底受け入れられ難い、子どもを危険にさらす準犯罪行為なのではないでしょうか。

 

この件に関して、ネットでも「自分も幼少時にされた」との意見が多くみられ、両親を擁護する意見も散見されますが、この“仕打ち”は、果たして肯定されるべきものなのでしょうか。

自分の子ども時代を比較対象にあげている人に対しては、子どもを取り巻く環境条件が全く異なる現在と一昔前とは、同一の比較条件下にないので、そもそも比較が難しいのではないか、ということを申し上げたいと思っています。

第一、自分が大昔にされたからといって、このような親の“仕打ち”は、決して肯定されてはならないと思っています。

 

幼いころに自分も親から似たような“仕打ち”を受けたからこそ、私のように他人事とは思えず、心配されている方ももちろんたくさんいらっしゃることと思います。

男の子の早期保護を心から願うとともに、このような“仕打ち”を受ける子どもがひとりでも少なくなることを切に祈ります。

小さくなる存在

随分と長い間、ここを留守にしていました。

ところが、ありがたいことにアクセスが「0」ではない日もあるようで、わざわざご訪問下さっている方の存在に、心より感謝申し上げます。

 

このブログの記事の更新が滞りがちであるのは、ひとえに私の中の「母の存在」が次第に小さくなっているからだと、自己分析しています。

それほど、母の存在と母が私に与えた影響というものは強大でした。

 

母は陰に陽に常に私を支配し続け、常に私の自由を奪い、常に私の気力を削ぐ存在であり続けました。

とはいえ、ずっとそのことに気付かずに来たのですが、それに気付いてからが、私の苦しみの始まりでした。

長子と私の待遇の格差には、母の私に対する「嫉妬」があったからなのだとようやく気付き、実子であっても、母の嫉妬と「憎しみ」の対象であり続けなければならない自分の存在を、誰にどうやって肯定してもらえばよいのかわからず、鬱々と過ごしてきました。

血のつながった実子であっても、母親というものは「娘」という存在にこのような仕打ちができるのか、と母を憎む気持ちが生まれ、そんな自分に恐怖すら感じていました。

母が私にした仕打ちに気付きさえしなければ、私はこんなに苦しむことはなかった。

そう思えば思うほど、私の人生は難しい方向へと進んで行きました。

 

しかし、そんな自分と決別したいとこのブログを始めて、誰に読んでいただこうと思うわけでもなく少しづつ母とのことを綴っていくと、今度は段々と母を理解できたような気持ちになり、憎しみも少しずつ解けて行っているように感じています。

 

もちろん、母への憎しみが完全に消えたわけではありません。

でも、あれだけ怯えていた、振り払っても振り払っても消えることのない、静なる恐怖を呼び起こす母という空恐ろしい存在が、私の中で確実に小さくなっているように思うのです。

逃れたくても逃れられないと諦めていた母の支配から、少しづつ解放されている兆候なのかもしれません。

 

まだ完全に母の支配から逃れられた訳ではなく、波があるのですが、また波に飲み込まれ、負の感情に溺れそうになったら、ここに吐き出しに来たいと思っています。

 

超不定期の更新になりますが、ここを長期不在にしている時には、ああ、良い兆候にあるのだな、とご理解いただければ幸いです。

Letters

音楽には全く詳しくないのですが、聞くのはジャンル・言語を問わず大好きです。

邦楽では、宇多田ヒカルさんを良く聞いていました。

現在は活動休止中ではありますが、今も聞き返しては名曲揃いだなぁと感心しています。

歌の上手さって、リズムや音程の正確さもさることながら発音の良さもあるんだな、と思わせてくれたのが彼女でした。

よく話題になるのが彼女の英語の発音ですが、私は日本語の発音の良さこそ宇多田ヒカルさんの持ち味なんじゃないかと勝手に思っています。

 

というのは、宇多田さんって濁音にきちんと鼻音を使っていらっしゃるんですね。

これは、他の邦楽アーティストに比べごく稀なことで、彼女の歌声が卓越している理由のひとつなのではないかと思っています。

だから、歌声を聞いていてとても心地良いのではないかと思っています。

 

最近また宇多田さんの曲を聞き返していて、ふと気づいたことがあります。

それは、名曲『Letters』の「君」「あなた」の解釈です。

www.kasi-time.com

SAKURAドロップス/Letters

SAKURAドロップス/Letters

 

 

ずっと、「君」「あなた」は男性なんだろうと思って聞いてきました。

しかし、「君」「あなた」が「母親」でも解釈的には通るな、と。

「年上の人」は放浪する「母親」=妻を束縛することなく見守っている「父親」かな、と。

身内目線で家族を見ないのが何となく彼女らしい気がして。

それは、宇多田さんのお母さまがご不幸に見舞われた時の公式HPのコメントの印象が強く残っているからかもしれません。

また、私も幼少期から宇多田さんとは性質は異なるものの、「母親」に置き去りにされた経験があるので、勝手にそう解釈してしまうだけかもしれませんが。

 

「母親」の愛情を求め続ける「私」、居場所を探し続けてさまよう「母親」への複雑な愛情を訴える「私」の歌だと考えると、個人的には一番しっくりきます。

特に、日本語歌詞最後の

今度急にいなくなる時は 何もいらないよ

には、何度も「母親」に期待してはそれが叶わなかった自分の姿を勝手に重ね合わせてしまいます。

最後の英語詞に、「leave」という単語が繰り返し出てくることからも、ますますそう解釈してしまっています。

 

このように、何度聞いても、年を重ねるごとに色々な解釈ができる歌詞を書く才能も、宇多田さんの魅力のひとつだと思っています。

皆さんはどのように解釈なさるでしょうか。

天井とお粥

物心つく前から、両親の関心が自分に全くない、ということは痛いほど理解していました。

例えば、病気の際。

実は、ほとんど病院に連れて行ってもらったことがありません。

私は両親にとって、いてもいなくてもどうでも良い存在だったからです。

長子と私の両方に高熱が出ても、私は当時住んでいた家の二階にあった畳の間に布団を敷かれて、ひとりで寝かされるだけでした。

病院に連れていかれるのは、いつも長子のみです。

ですから、ごくまれに病院に連れて行ってもらえると、とても嬉しくてはしゃいでしまい、医者に「こんな元気な子をどうして病院に連れてきたのだ」と言われてしまうほどでした。

大人になった今でも、病院に行くのは特別な感じがして、病気なのに嬉しさがあります。

 

小さい頃の経験で今でも覚えているのが、熱の出た身体でゴロゴロと布団の外に転がり出ると、ひんやりとした畳の感触が気持ちよかったことです。

またゴロゴロと布団の中に戻ってはまた転がり出るのを繰り返すと、母が長子を連れて病院から戻るまで寝るか、ひたすら天井を見上げていました。

母が長子を連れて戻ってきても、私はそのまま畳の間に寝かされ、自力で一階に降りていけるようになるまで、そのまま放置されていました。

何度も見つめていた天井の模様は、今でも目に焼き付いています。

 

当時も今も、病院になぜ連れて行ってもらえなかったのか、疑問には思っていません。

わが家には厳然とした「序列」があり、第二子である私は両親から関心すら持たれていませんでしたし、「厄介者」の私に万一何かあったとしても、ご近所の目を意識して儀礼的に流すのを除けば、誰も涙すら流さず、誰一人悲しみもしなかったんじゃないかと思います。

それに、幼子を二人も連れて病院に行かなければならない母の身としても、庇護するべき対象である長子のみを連れていくことに、何の疑問もなかったと思います。

同じように熱を出しても、私はひとりで寝かされ、長子だけ病院に連れて行ってもらい、両親は涙を流さんばかりに心配し、あれやこれやと世話を焼く。

何度か触れてきましたが、長子は、言葉でコミュニケーションを取るのが今も昔も不得手です。

それは、小さい頃から親が先回りしてあれやこれやと世話を焼いてきたので、今更自分の言葉で自分のことを他人に伝えきれないからです。

今でも、長子は自分以外の誰かが自分のことを自分以上に理解してくれて、自分に代わって他の誰かに説明してくれるのだ、と本気で思っている節があります。

これはこれで、大変不幸なことだと思っています。

 

ところで、病気の際、畳の間にひとり寝かされることを当然のこととして大人になり、ひとつ驚いたことがあります。

それは、「病気の際には、どうやらお粥というものを食べるらしい」ということです。

病気になっても、私は“お粥”というものを作ってもらったことが無いので、長らく存在すら知りませんでした。

大人になってから、「風邪を引いてしまった」と言うと、複数の友人が“お粥”というものを作って持ってきてくれて、ようやくその存在と役目を知りました。

しかし、今でも“お粥”を食べ慣れないので、病気の時に食べたいとは思いません。

病気の際は、今でも、自力で起き上がれるようになるまで、飲まず食わずで布団の中に転がっているものだ、と思っています。

どうでもいい子 2

「どうでもいい」とは、私が言われ続けて育った言葉です。

  • アンタのことは“どうでもいい”
  • アンタが何をしようと“どうでもいい”
  • “どうでもいいでしょ”

等々、列挙に暇がないほど言われ続けてきました。

母親に話しかけても、返ってくるのは“どうでもいい”ばかりで、でもそれでも言葉が返ってくるだけマシでした。

大抵は何も返って来ず、存在すら無視されていたからです。

両親にとって自分は価値のない人間なのだな、というのは物心つく前からわかっていました。

両親にとって価値のある子どもは、家庭内で長子ただ一人だったからです。

どうでもよくない、構いたい価値のある子は、長子であって私ではない。

それは、幼い私にもはっきりとわかるほど、両親の態度はあからさまでした。

そういえば、子どもというのは親から無条件に愛情を注いでもらえるものらしい、というのを知ったのは、大人になってからでした。

無償で注いでもらえる愛情って一体何なんだろう。

愛情って、無条件に注いでもらえるものなのだろうか。

それは、いい歳になった今もさっぱりわかりません。

愛情、というものも、愛されるという感覚も、いまだに一切わかりません。

わからないなりに、他の人に愛情を注いでみているつもりですが、それが果たして本当に愛情であるのか、正直わかっていません。

でも、ひとつだけわかることがあります。

それは、「してもらいたかったことを相手にする」ということです。

子どもを見たら、極力良いところを見つけて言葉で褒め、そして頭をなでる、ハグをするなど行動に表すようにしています。

言葉も行動も、無償の行為です。

それで愛情が示せるのなら、いくらでもしたいと思っています。

異性や友人に対しても同様です。

小さかった私がしてもらいたかったことを、相手にする。

それで、自分がもらえなかった愛情を補完できているつもりになっているのかもしれません。

愛情ってどのように注いでもらえればよかったのか、もう大人になってしまった私には取り返しのつかない難題です。

しかし、今同じ問題を抱えている人がいたら、差し上げられるものなら差し上げたい、そう願っています。

「どうでもいい子」

  • どうでもいい子
  • アンタのことは、どうでもいい

上記は、母から本当に良く言われていたことです。

何かを母に言っても、「アンタのことは、どうでもいい」。

そう言ってすぐにそっぽを向かれていました。そう言った母の疲れ切って冷たい横顔は、今でも目に焼き付いています。

それに、頻繁に言われてはいましたが、「どうでもいい子」の意味を、そういえば私はずっと理解できていませんでした。

というよりは、理解したくなかったのだと思います。

“アンタ”という呼称からして、母にとって私は「子ども」や「娘」ではなかったのだろうと思います。

愛情を注ぐ対象ではない、“厄介者”。

これが、母にとっての偽らざる私の存在だったのではないでしょうか。

父にとっても同様です。

例えば小さい頃、1Lの牛乳パックが重くて、手元が狂ってうっかりグラスの外に牛乳をこぼしてしまった時。

私には、間髪入れず

「吸え!!」

と怒号が飛んできました。

しかし同じことを長子がしても、

「こぼしてしまったの?」

声だって猫なで声です。

恐らく生まれた時から、長子と私の立場には、雲泥の差がありました。

父母にとって、私は“厄介者”以外の何物でもありませんでした。

今でもそれは変わりませんし、仕方のないこととそれを受け入れています。

私のこの心境は、もしかすると随分と奇妙に思えるかもしれませんし、場合によっては人の道を踏み外す理由になったかもしれません。

しかし、私が人の道を踏み外さずに済んだのは、ひとえにご近所の小母さま方の存在が大きかったと思っています。

小母さま方には、いつも「可哀想だ」と同情をいただいており、長子よりも随分優しくしていただきましたし、可愛がっていただきました。

私を見かけるなり、「家に寄っておいで」「ご飯食べた?」と常に声を掛けていただいていました。

誰も言ってくれなかった、「可愛いね」「お利口さんだね」という言葉も、小母さま方には掛けていただけました。

今はもうぼんやりとしか顔を思い出せなくなった小母さま方には、感謝しても、しつくせません。

しかし幼かった私は、「可哀想」と小母さま方に言われる意味を分かっていませんでした。

自分を「可哀想な子ども」だと自覚していなかったからです。

意図的にかそうでないかはわかりませんが、私が自分自身を惨めに思わなくて済んでいるのは、ある意味鈍感だったからでしょうか。

だからこそ、長じて記憶を辿っていて、私の子ども時代が普通とは少々かけ離れていることに気付いた時には、かなりの戸惑いを覚えました。

とはいえ、空腹に泣いたこともないし、貧しかった記憶もない。

だからこそ、私は幸せな子どもだったのだ、と思っています。

「どうでもいい子」ではありましたが、私は幸せな子どもだった。

そう信じています。