「どうでもいい子」
- どうでもいい子
- アンタのことは、どうでもいい
上記は、母から本当に良く言われていたことです。
何かを母に言っても、「アンタのことは、どうでもいい」。
そう言ってすぐにそっぽを向かれていました。そう言った母の疲れ切って冷たい横顔は、今でも目に焼き付いています。
それに、頻繁に言われてはいましたが、「どうでもいい子」の意味を、そういえば私はずっと理解できていませんでした。
というよりは、理解したくなかったのだと思います。
“アンタ”という呼称からして、母にとって私は「子ども」や「娘」ではなかったのだろうと思います。
愛情を注ぐ対象ではない、“厄介者”。
これが、母にとっての偽らざる私の存在だったのではないでしょうか。
父にとっても同様です。
例えば小さい頃、1Lの牛乳パックが重くて、手元が狂ってうっかりグラスの外に牛乳をこぼしてしまった時。
私には、間髪入れず
「吸え!!」
と怒号が飛んできました。
しかし同じことを長子がしても、
「こぼしてしまったの?」
声だって猫なで声です。
恐らく生まれた時から、長子と私の立場には、雲泥の差がありました。
父母にとって、私は“厄介者”以外の何物でもありませんでした。
今でもそれは変わりませんし、仕方のないこととそれを受け入れています。
私のこの心境は、もしかすると随分と奇妙に思えるかもしれませんし、場合によっては人の道を踏み外す理由になったかもしれません。
しかし、私が人の道を踏み外さずに済んだのは、ひとえにご近所の小母さま方の存在が大きかったと思っています。
小母さま方には、いつも「可哀想だ」と同情をいただいており、長子よりも随分優しくしていただきましたし、可愛がっていただきました。
私を見かけるなり、「家に寄っておいで」「ご飯食べた?」と常に声を掛けていただいていました。
誰も言ってくれなかった、「可愛いね」「お利口さんだね」という言葉も、小母さま方には掛けていただけました。
今はもうぼんやりとしか顔を思い出せなくなった小母さま方には、感謝しても、しつくせません。
しかし幼かった私は、「可哀想」と小母さま方に言われる意味を分かっていませんでした。
自分を「可哀想な子ども」だと自覚していなかったからです。
意図的にかそうでないかはわかりませんが、私が自分自身を惨めに思わなくて済んでいるのは、ある意味鈍感だったからでしょうか。
だからこそ、長じて記憶を辿っていて、私の子ども時代が普通とは少々かけ離れていることに気付いた時には、かなりの戸惑いを覚えました。
とはいえ、空腹に泣いたこともないし、貧しかった記憶もない。
だからこそ、私は幸せな子どもだったのだ、と思っています。
「どうでもいい子」ではありましたが、私は幸せな子どもだった。
そう信じています。
「なんで?」
今日はちょっと趣向を変えて、恐らく母が育て辛かったであろう、ちょっと変わった長子について綴ってみたいと思います。
長子とは、いまだに上手く会話のキャッチボールができません。
というのは、何を聞いても最初に返ってくる答えが「なんで?」だからです。
例えば、
「土曜日、出勤?」→「なんで?」
「コンビニ寄る?」→「なんで?」
「今から送る文書をプリントアウトしてくれる?」→「なんで?」
という具合に、何を聞いても頼んでも、「なんで?」が先に来るのです。
質問の意図が通じないようで、それは子どもの頃から現在も、全く変わりません。
そういえば母が言っていました。
私が生まれる前、まだ長子がひとりっ子だった頃、目にするものすべてを指さして、「なに?」と聞いていた、と。
自分が認識できるまで繰り返し聞き、目に入るものすべての名称や現象を説明しなければならなかった、と。
その質問はひっきりなしに続き、やはり付きっきりで面倒を見なければならなかったようです。
また長子は、初対面の人と会話を交わすことができません。
現在は少しは良くなっているようですが、基本的に極度の人見知りなので、初対面の人とは、直接ではなく、誰かを介してでないと話すことができません。
というよりも、言葉で人とコミュニケーションをとることが、極度に苦手なのです。
よって、病気になっても病院には行けません。医師に、自分の言葉で自分の体調を説明できないからです。
また、言葉を額面通りに取りがちで、婉曲的な表現をされると、その発言の真意が汲み取れません。
それが、現在も続く「なんで?」の原因でもあるようです。
普通、「土曜日、出勤?」と聞かれると、何か用事があるのでは、との予測がつきますが、長子はそれができません。
また、自分で決めた“マイルール”に従って生活をしており、傍から見るとかなり奇妙な生活をしています。
例えば、アレルギーなどは一切ないのに、
- ○○(任意の食べ物)は食べない
と決めていて、それを数十年頑なに守っています。好き嫌いという訳でもなく、「自分で決めたから」食べない、というだけです。
また、
- ○○(任意の国や地域/場所)には行かない
とも決めていますので、行けない場所がたくさんあります。これも、特に理由はなく、「自分で決めたから」行かない、というだけです。
このような数限りない“マイルール”に従って生活をしていますので、私から見ると大変窮屈な生活をしています。
しかし本人が自分で決めたことで、やめるという選択肢は本人にもありません。
誰かに強制されたわけでもなく、宗教や信仰上の制約があるわけでもなく、体質や医師からの制限を受けているわけでもないのに、自分で勝手に決めて、勝手に守っているだけなのです。
また、物事に対して強いこだわりを持っていますので、自分の決めたペースや秩序を乱されると、かなりの不快感を覚えるようです。
他人を許容できないので、人と旅行に行くこともできません。学生時代につきものの「修学旅行」、これも参加できませんでした。
私には楽しい思い出しかありませんが、他人を許容できず、自分の決めた秩序を乱される旅行という行為は、長子にとっては耐えがたい苦痛のようでした。
その他にも、長子に関してはいまだに奇妙なことしかありません。
もしかすると、専門医の診察を受けると、何らかの診断がつくのでは、とも思うこともあります。
しかし、前述のように、長子は言葉でのコミュニケーションがかなり不得手なので、医師にかかることはできないのです。
また、本人も生き辛さを感じてはいるものの、現在も幼少時、母が付きっきりで自分にしてくれていたように、「誰かが何とかしてくれる」と、本気で思っている節があります。
これじゃ、私もお手上げです。
誰のものでもない人生、自分で自分の人生を生きなければ。
いまだに自分の人生を歩めていない長子を、時折不憫に感じます。
しかし、もう人生の後半戦に差し掛かっている長子に、私の思いは伝わりません。
やはり、自分は自分で自分の人生を生きるしかないんです。
厳しいかもしれませんが、当然のことだと考えています。
『鬼畜』
全く知らない映画だったのですが、岩下志麻さんと小川真由美さんが共演している、と言うだけでなぜか惹かれて、松本清張原作の『鬼畜』(1978年公開)を見ました。
印刷屋を営む気の弱い宗吉(緒形拳)が、愛人・菊代(小川真由美)との間に3人の子どもをもうけます。
やがて印刷所の経営が傾き、愛人と子どもを養えなくなった宗吉に嫌気がさした菊代は、宗吉の妻・お梅(岩下志麻)のもとへ子ども3人を連れて行き、雲隠れする。
愛人の子どもと宗吉、お梅の生活が始まるが、お梅は愛人の産んだ子どもには愛情を注げず、子どもを待ち受ける運命は…。
というストーリーなのですが、何と言っても、緒方拳、小川真由美、岩下志麻、そして蟹江敬三という名優たちの演技が圧巻の作品です。
中でも、岩下志麻さん演じるお梅の鬼気迫る演技には、演技と分かっていても嫌悪感を覚えるほどです。
しかし私は、目を吊り上げ、心底憎々しげに子どもを睨み付け、子どもに刺々しい言葉を投げつけ、折檻を繰り返すお梅の姿に、思わず私の母の姿を見つけて、なぜか懐かしくなってしまいました。
母は岩下さんのように美人ではない、どこにでもいる容姿の女性ではありましたが、ドキッと驚くほど、似ていたのです。
まったく同じ表情を、私の母も良くしていた。
表情ばかりでなく、同じような行動を、私もされていました。
本来ならば眉をひそめて見るべきシーンが、私にとっては懐かしい表情と行動のオンパレードで、そこばかり何度か繰り返し見てしまいました。
そして、岩下志麻さんは、やはり名実ともに大女優なのだと再認識した映画でもありました。
役作りで、あれだけの憎しみを表現できるのですから、役者さんの才能というのは凡人とはかけ離れているのですね。
この映画のレビューを見ると、緒形拳さんの名演についての言及に目がいきます。
また、気の弱い宗吉(緒形拳)と気が強く残忍なお梅(岩下志麻)との対比もよく言及されています。
しかし私は、子どもを愛せない女性の狂気を見事に演じきった岩下志麻さんの、一瞬たりとも優しさを見せず、終始一貫して冷徹で残忍な目こそ、最も称賛されるべき演技だったのではないかと思いました。
とはいえ、お梅の気持ちもわからないでもないと思います。自分が産みたくても“産めなかった”子どもを愛人が3人も出産し、しかも、すべては自分の与り知らぬところで行われていた出来事なのです。
加えて、事業が上手く行っていた時ならばまだどうにかなったのかもしれないのに、事業が傾いて、自分たちの生活も苦しい時にいきなり手の掛かる子どもが3人も増える…。
だからといって子どもを折檻していい理由にはなりませんが、冷たく当たってしまう気持ちは、全く理解できないわけではありません。それよりも、自分が産んだ子どもを放置して行方をくらましてしまう菊代の行動の方が理解に苦しみます。
やはり、「母性本能」って神話に過ぎないのではないかな、と思ってしまいます。後天的に、“獲得する”ものなのではないでしょうか。
だから、例え子どもを産んだとしても、「母性」を獲得できないままの女性も存在するのではないかと思うのです。
ところで、『鬼畜』とは一体誰のことなのでしょうか。
諸説ありますが、私個人の見解としては、登場する大人全員のように感じました。
ながら見で、じっくりとは見ていませんので、数回見るうちにまた感じ方も変わっていくとは思うのですが。
皆さんは、一体どのようにお感じになるでしょうか。
ああ、そう。よかったね。
小さい頃、外であった出来事を母に話すと、決まって言われたのが、
「ああ、そう。よかったね」
でした。
いつも突き放すように言われていたのですが、それでも、私は母に毎日の出来事を一方的に話し続けました。
父は子どもというか家庭に興味が一切なく、母以外に、家庭内に話し相手がいなかったからです。また、長子はちょっと変わっていたので、人の話を聞くタイプではありませんでした。
何を話しかけても、母の返事は決まって「ああ、そう。よかったね」。
苛立ちを隠そうともせず、こちらをちらりとも見ないで吐き捨てていた母の姿が、今でもまぶたに焼き付いています。
母はちょっと変わった長子を付きっきりで一日中世話をしていましたから、恐らく私の話には興味すら持てなかったと思います。
それでも、「ああ、そう。よかったね」。この言葉を聞くためだけに、毎日母に話し続けました。
至極苛立たしげかつ憎々しげにではありましたが、言葉をもらえるだけマシでした。
母の機嫌が悪い時には、その言葉さえもらえず、そっぽを向いたまま、黙って無視されました。
今となってみれば、長子の世話と家事で疲れ切っているところに、ベラベラと話しかけられて、きっと母は心底鬱陶しいと思ったことと思います。
それでも、一応は「ああ、そう。よかったね」と声を掛けてもらっていたことに、今では感謝しています。
とはいえ、育った時にかけられた言葉というのは、とても大きな影響力を持ちます。
幼稚園や小学校に上がった時、クラスメイトとのいざこざでイライラしたとき、私は「ああ、そう。よかったね」と無意識に相手に吐き捨てていました。
母と全く同じ口調で、突き放すように、苛立たしげに、憎々しげに。
長じて気付きましたが、私がかけられて育った言葉は、必ずしも人を和ませる言葉ではありませんでした。というよりも、人を攻撃し、傷付ける言葉も多かったように思います。
それに気付いてからは、「ああ、そう。よかったね」という言葉を使わなくなりました。
負は連鎖します。
私はそれに運良く気付けたので、私でその負を終わらせなければならないと感じたからです。
母が私に放っていた、あの苛立たしげで憎々しげな言葉と口調は、間違いなく私の中に息づいている言葉であり口調です。
しかしそれは、私限りで終わらせなければならない負の言葉であり口調でもあるのです。
以降、「自分が言われたかったこと」「掛けられたかったこと」「心地良いと感じる口調」を選んで話すよう、心がけています。
まだまだ完全には実行できていませんし、どうしても負の言葉や口調が出てしまうことも多々あります。
しかし、負の連鎖を断ち切るために、これからも努力していかなければと思っています。
まずは自分から
4月1日の今日から、新しい生活を始めた方、新しい環境・物事に挑戦していらっしゃる方もたくさんいらっしゃるのではないかと思います。
今日は視点を変えて、以前相談を受けたことについて、気ままに綴ってみたいと思います。
私は無駄に歳も経験も重ねていますから、色々な方から相談を受けることが多々あります。
以前、「誰も自分に話しかけてくれない」、「クラスに馴染めない」、「クラスのみんなが話しかけにくい雰囲気だ」、と悩みを持つ方から、相談を受けたことがあります。
私はそれを聞いて、少し不思議に思ったのを覚えています。
というのは、その方はあくまでも、
- 他の人から自分に話しかけてほしい
- 自分から話しかけるのは嫌だし、出来ない
とおっしゃったからです。
だったら、クラスの雰囲気が多少悪かったり馴染めなくても、仕方がないのではないかな、と思ったのです。
本当にクラスの雰囲気が気に入らないのであれば、自分が変わるしかありません。
自分は変えられるけれども、他人は変えられないからです。
また、その方はクラスメイトたちについて、
- いつも張りつめた表情をしている
- 笑顔がない
とおっしゃっていたのですが、実はそれって、自分のことでもあると思うんです。
自分の学生時代を思い出しても、楽しいクラスの時には、クラスメイト皆が明るい表情をしていました。
残念ながら暗いクラスには馴染みがないのですが、それは私自身がいつも笑っていたからかな、と思います。
私は、家族の中ではあまり楽しい思いをしていませんでしたが、ご近所の小母さま方には、本当に良くしていただきました。
そこで、自分が楽しくなれるものを見つけていつも気持ちを明るくしていれば、周りにも自然と笑顔が集まるものだ、ということを学びました。
今でも、男女・年齢・民族問わず、「話しかけやすい」と言っていただけるのも、幼少期に積んだ経験が功を奏しているのかな、とも思っています。
ですからその方には、
- 「人は鏡」、クラスメイトの表情=自分の表情
- まずは自分から、笑顔で話しかける
ということを僭越ながらアドバイスしました。
また、どうしても自分から話しかけることができないのであれば、
- 「自分が話しかけやすい」と思う人の雰囲気と表情を真似する
- 「自分がされて嬉しいこと」を他の人にもする
ことを試しては、とお伝えしました。
でも、基本的には、自分が変わろうとしない限り、何も変わらないんです。
他の人に求めてはいけないと思います。まずは自分に求めて、自分に足りない部分を自分で補完していかなければ。
また、古今東西・老若男女・民族問わず、「されて嬉しいこと」と「されて嫌なこと」は普遍的で、変わりません。
自分が誰かに、「されて嬉しいこと」を繰り返ししていれば、いつの間にかその“嬉しいこと”は返ってくるものです。
もちろん、見返りを求めてやっていたわけではありませんが、今振り返ってみても、そうなんじゃないかな、と思うことが多々ありました。
また、人間関係も恋愛も、教科書はありません。
自分で実際に経験して、体得して行くものです。
焦らずに、自分にあった方法を見つけていくのも、悪くないと思います。
今日は視点を変えて、偉そうにも綴ってみました。
新しいお母さん
今日は、少し過去の記憶を記しておきたいと思います。
私の一番古い記憶は1歳半から2歳くらいの記憶で、そこから現在に至るまでの記憶があります。というか、幼少期の記憶が一番鮮明なんですよね。
多分、その時期にあまり楽しい記憶がないので、余計に印象深く心に残っているのかもしれません。
特に3歳以降の出来事は、今でもはっきり脳裏に焼き付いています。
両親にとって私は長子ではなく、次子です。私が3歳前後の頃、長子は小学生になるかならないかくらいの年齢です。
長子は、今考えても少し変わった子どもでした。恐らく、母にとっては育てにくい子どもだったのだと思います。
当時、“育メン”なんて言葉はありませんし、結婚後働く女性も少ない時代で、私の母もご多分に漏れず専業主婦でした。
育児や家事など家庭内のことはもちろんのこと、ご近所とのお付き合いまで、すべてが母に係る仕事でした。
出身地ではない土地にやってきて、地元の勝手も習慣もわからず、周囲に知り合いのいない中、長子を出産し育てる。しかも、肝心の夫は何ひとつサポートしてくれない。弱音を吐ける相手もいない。
加えて、長子はどう説明したらよいのかわからないが、どうも育てにくい。しかし、長子だから比較する対象もないし、育児はこのようなものなのかも、と思い込もうとする。
やがて次子を出産すると、長子が完全に幼児返りしてしまい、何ひとつ自分で出来なくなった。生まれて間もない次子の世話をしようとすると、長子が引き付けを起こして白目をむき、泡を吹いて倒れてしまう。でも、誰も助けてくれないんです。自分の夫でさえも。自分の子どもでもあるのに、知らん顔なんです。
ーーーーこんな生活、誰だって嫌です。
こんな状況の中、私の両親が下した結論。それは、「次子はいないものとして扱う」でした。
まだひとりでトイレも食事もできない頃は、何とか親が世話を焼いてくれていたことと思いますが、それができるようになると、放置されました。
うっすらとしていますが、長子を両親でチヤホヤしているのをボーっと眺めている記憶が残っています。私は確かに存在しているのですが、家庭内では存在していない。
そんな期間が、長子の状態が落ち着くまで、数年間は続きました。
私と長子が幼かった頃の母の身体的・精神的ストレスは相当のものがあったと思います。
しかし、親というものは不思議なもので、手の掛かる子どもほど可愛く感じるのだそうです。
だから、長子はどんなに手が掛かろうと、育て難かろうと、常に両親の愛情が注がれる対象であり続けました。
対する私は、誰も何も世話を焼いてくれないので、何でも自分でするしかありませんでした。
自分で出来ないことは、大人にやってもらえるよう、上手くお願いしてやってもらう必要がありました。すると、自然と言葉と交渉術が発達します。よって、私は年の割には口が達者な、所謂“ませた子ども”だったと思います。
しかし、これが母の大いなる不興を買っていました。
- 子どもの癖に可愛げがない
- 生意気だ
- 大人に媚びを売っている
等々、目を吊り上げ、口を尖らせた例の憎々しい表情で、常に責め立てられ続けました。長子と異なり、私は母の憎しみと不満をぶつけられる対象であり続けました。
とはいえ、当時の私としては仕方がなかったのです。
「イライラするから」「顔を見たくないから」と、よくひとりで外に出されていました。文字通り締め出されていたので、何度ドアを叩いても、必死に背伸びをしてドアノブをガチャガチャやっても、母は決して出てきません。
仕方なく近所の公園に行っていましたが、まだ幼稚園にも通っていない2~3歳児がひとり遊びするのにも、限界があります。
また、行動範囲も限られてくるので、結局は近所の小母さん方に相手をしてもらうほかありませんでした。
「またひとりで遊んでいるの?」「家に寄ってらっしゃいよ!」そう声を掛けてもらうと、小母さんたちの邪魔をしないよう極力お利口にして、今考えるとかなりの長時間、お宅にお邪魔していました。
それでも、いつも代わる代わる声を掛けていただいて、お宅にお邪魔させてもらえていたのは、近所の小母さん方も、私のことを憐れんでくれていたからなのでしょう。関心を注いでいただいたことに、今でも深く感謝しています。
この頃、母のイライラは限界に近かったのだと思います。でも、何度も言うように、頼れる人のいない土地で、夫ですら何ひとつしてくれないんです。
「お前が我慢すればいいんだ」「我慢できないお前が悪いんだ」と言い争っていた記憶が、朧げにあります。
育て辛い長子とまだ手の掛かる幼児を抱えて、母の精神状態は限界だったのでしょう。予想ですが、もしかしたらこの時期の両親の関係は崩壊寸前だったのかもしれません。
この時期、父が私に「新しいお母さんが来るぞ」と言っていた記憶があります。つまり父は、離婚して別の女性と再婚してもいいんだぞ、と母を脅していたのです。
当時の私は、それを聞いて本当に嬉しかったのを覚えています。私は家庭内では「不在の存在」で、常に母から憎しみと不満を投げつけられる存在だったからです。
「新しいお母さんが来る」と聞いて、もう家庭内で“いない者”として扱われることもないし、ひとりで一日を過ごさなくても済む。窮屈な思いをしてご近所の小母さま方に相手をしてもらわなくても、「新しいお母さん」が可愛がってくれるんだ!
一気に、私の周りの物事が輝きを持ったように感じました。
やった!ようやく可愛がってもらえる!
そう思い、「新しいお母さんが来るんだよ!」と喜び勇んで近所に言って回っていましたし、実際に母に「いつになったら新しいお母さんが来るの?」と聞いてもいました。
今考えると、何て残酷なことをしたのだ、と思います。
しかし、当時の私は「新しいお母さん」との楽しい生活を、毎日本気で夢見ていました。
それほど、私と母の関係は、既に異質なものとなっていました。
お久しぶりです
ここをすっかり放置してしまっています。
私生活で色々としんどいことがあると、母や過去と向き合うのもしんどくなります。
記憶にも蓋をしてしまいたいのですが、それだときっとずっと楽になれないままなんじゃないか。
きちんと向き合って消化しなければ、とは思うのですが、まだその気になれません。
しかし、ありがたいことにこんなブログもアクセスはゼロじゃない時もあるんですね。本当にありがたいです。
また、ここで過去を少しですが吐露することによって、以前と比べて精神的に楽になって来ました。
“心のデトックス”とでも言うべきなのでしょうか、私には良い効果をもたらしてくれています。
気持ちを整えて、またきちんと母と過去に向き合いたいと思います。